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【展示】近江米の挑戦

展示期間 平成28年9月26日(月曜日)~平成28年11月2日(水曜日)

ポスター(近江米の挑戦)

 現在近江米といえば、平成27年(2015年)に特Aランクの評価を受けた「みずかがみ」に代表されるように、その優れた品質が全国で高く評価されています。江戸時代には京都の御備米と呼ばれ、大都市京都の胃袋を支えました。初代滋賀県令松田道之も、その米質を高く評価し、今後海外の輸出が盛んになれば、現在の「江州米」から「日本ノ名物品」になるだろうと述べたものです。
 しかし明治8年(1875年)の地租改正を契機として、その名声は地に落ちることになります。租税が全て金納になったことから、米質の規制が弛緩し、小粒で粗悪な米が広がっていったのです。滋賀県産の米は「江州の掃き寄せ米」と酷評されるようになり、県内関係者はその汚名を払拭するため大いに苦心しました。その長い米質改良の過程で生まれた品種「滋賀渡船」は、現在「幻の酒米」として復活し、県を代表する酒造好適米として知られています。
 今回はそのような近江米評価の変遷と、県内関係者による様々な米質改良の取り組みをご紹介します。古来より一貫して高い評価を受けていたと思われがちな近江米ですが、その長い歴史のなかには、毀誉褒貶の時代と関係者の並々ならぬ努力があったことを、多くの方々に知っていただく機会になれば幸いです。

【コラム】品質改良の試み

毀誉褒貶の近江米

「大津米相場の沿革」 大正12年(1923)

大津米相場の沿革

近江国(滋賀県)は、古来より米の生産地として知られ、天正・文禄期(1573~1596)には、大津は既に一大市場を形成していたといいます。江戸時代になると、浜通りに蔵屋敷が並び、正保元年(1644)には、米の卸売市場である米会所が設けられました。本文書は、本県の商況と営業を広く紹介するために出版された『滋賀県がいどぶっく』の一節です。著者の北村重之助は、大津商業会議所の書記長を務めていました。【行政資料577】

「江州米の名声」 明治41年(1908)

江戸時代より江州(近江)米は、品質がよく、乾燥・調製・俵装も完全であったことから、その名声は広く世間に知られていました。当時の租税(年貢)は米納であったため、どの藩も厳格な規制を設けて、その米質を確保していました。米蔵は全て大津に置かれ、同地の米商を通じて京都に運ばれました。その米は京都の御備米と呼ばれ、京都以外への販売が禁じられていたものの、その評価の高さから十分な需要があったようです。【明え238(1)】

「県治所見」 明治7年(1874)1月11日

明治維新後も、初代県令松田道之は、江州の数ある物産のなかで、米を筆頭にあげ、その品質は「固有ノ良位」を保ち、製法も申し分ないとたたえています。今後、輸送手段が発達し、海外の輸出が盛んになれば、現在の「江州米」から「日本ノ名物品」になるだろうと、惜しみない評価を与えました。松田はこれから新しい事業を始めるよりも、まずは県の「固有ノ物品」をおろそかにしてはならないと、在来産業の育成を呼びかけています。【明い246(2)】

「米品評意見書」 明治15年(1882)3月31日

米品評意見書

明治15年2月1日から3月30日まで、米麦外3品共進会(品評会)が東京上野で開催されました。県内からは1,652人が出品しましたが、受賞したのは1割に満たず、近江国は「中等部ノ上品」という評価にとどまりました。甲賀郡を除けば、調整・乾燥が不十分で、その改善は「近江国人民ノ急務」だと指摘されています。同会では「江州の掃き寄せ米」と酷評されたともいわれ、米質に自信をもっていた県内の生産者に大きな衝撃を与えました。【明た32(84)】

「低下する米質」 明治23年(1890)

実は近江米の品質は、明治8年の地租改正を契機として、次第に低下していたようです。租税が全て金納になったことから、米質の規制が弛緩し、小粒で粗悪な米が広がっていました。乾燥・調製は不十分なままで、俵装も濫造に流れました。一重俵で堅縄が用いられなかったため、揚げ卸しの際には、こぼれ落ちる米も少なくありませんでした。そのため貧困者が米商の門前や船着場に集まり、塵取りや手箒で米をかき集める光景さえ見られたようです。【明て54(66)】

「農事規約例」 明治17年(1884)5月8日

米の乾燥期間や調製の方法などを郡村ごとに守らせるために定められた県の規則。しかし罰則・強制規定はなく、その「改良心」は地域により様々だったようです。速やかに規約を設けて実績を上げた村があった一方、規約を設けず他人を非難するばかりで実行に至らなかった村もありました。同規則が守られなかった背景には、県内の米商が米質改良に関心を示さず、むしろ農家を煽動して妨害していたこともあったようです。【明い144(51)】

「米質改良組合の結成」 大正期

米質改良組合の結成

明治21年7月、勧業委員の堀井新治郎らは、農商ともに1つの組合規約のもとで米質改良に努める必要性を説き、全国でも例外的に制裁規定をもった米質改良組合が結成されます。堀井は蒲生郡岡本村(現東近江市)に生まれ、紅茶伝習所現業取締や岐阜県御用掛などを務めた人物で、謄写版(ガリ版)印刷機の開発者として知られています。この組合には、他県から規約書の請求や視察員の派遣が相次ぎ、その後全国で同様の組合が生まれました。【大ふ7(28)】

「近江米に関する各種機関の分布及収穫高比較図」 明治40年(1907)

近江米に関する各種機関の分布及収穫高比較図

米質改良組合では、各村に検査所を設置し、全ての生産米に対して、乾燥・調製・俵装の検査を行いました。さらに他府県に輸出する米については、各郡要所に設けた輸出米検査所で、品質に応じた等級記号(1~5等)を付けました。米質は、品質・色沢・形状・乾燥・調製の5点から評価されたようです。本図では、輸出米検査場が置かれた場所に△印が記されています。【明て61合本4(1)】

「関西府県連合共進会の概評」 明治30年(1897)10月25日

関西府県連合共進会の概評

明治28年に開催された第4回内国勧業博覧会において、米質改良組合が表彰の栄誉を受けます。さらに明治30年の第6回関西府県連合共進会では、大粒で品質良好のものが多いのは、他府県の遠く及ばないところだとして、近江米が「本会ノ出品中ニ冠タリ」との評価を受けました。かつて「掃き寄せ米」と評された近江米は、その名誉を十分に回復したといえるでしょう。その成果に自信を得た同組合は、明治31年に近江米同業組合へと改称します。(国立国会図書館蔵)

近江の酒

「酒税其外税則等御改正の儀に付伺書」 明治4年(1871)9月晦日

江戸時代において酒造業は、米価調節の必要から、幕府が発行した酒造株(鑑札)所有者に限って許され、その生産量も制限されていました。明治4年7月、明治政府は酒造株を撤廃し、酒造業開業の自由を認めます。本文書はその税額の基準となる酒の平均価格に関する大津県の伺い書です。酒造業者が少ない地域では調査が困難なので、郡ごとに1か所ずつ業者が多い地域を選んで平均価格を算出してもよいか、大蔵省に伺い出ています。【明う159(40)】

「酒造桶類取締規則」 明治8年(1875)11月7日

酒造桶類取締規則

明治8年2月、明治政府は酒類税則を制定し、従来の免許税を廃して、酒税を営業税と醸造税の2種類に整理しました。前者は1期ごとに10円、後者は売値の1割です。ただし引き続き、営業には免許鑑札が必要で、許可なく営業した者には罰金が科せられました。同年に県が定めた本規則では、酒造業に用いる桶類は、全て官員の調査が必要だと記されています。桶の口径・低径・深さに加え、醸造する石高の認定が求められました。【明い68(43)】

「酒屋会議出席の警告」 明治15年(1882)4月24日

明治13年9月には、新たに酒造税則が制定され、酒税が大幅に増徴されることになりました。多くの酒造業者が経営不振に陥り、同15年5月には「酒屋会議」という全国の酒造業者の集会が企画されました。それに対して、県令籠手田安定は、同集会を「国安ヲ妨害」するものだと批判し、県内の酒造業者が参加しないよう郡長に注意を促しています。しかし同集会には、彦根の酒造家・中村吉太郎が出席し、政府に酒税軽減歎願書を提出しています。【明い96(107)】

「酒造人心得書」 明治16年(1883)10月15日

酒造税則の布告にともない、明治13年11月、大蔵省はその取扱心得書を布達しています。しかしその後、同税則の改正が相次いだため、各府県で独自の心得書が制定されるようになりました。本県の心得書は、同じ年の10月11日に定められた京都府のものと類似しており、作成する上で参考にしたと考えられます。新規営業の申請方法や生産見込量の報告方法など、酒造業を営む上で欠かせない手続きなどが記されています。【明い137(37)】

「渡船から滋賀渡船へ」 明治32年(1899)4月

渡船から滋賀渡船へ

明治28年4月、滋賀郡膳所村(現大津市)に農事試験場が設立され、米の品種改良が大きく進みました。大正期に同試験場で生まれた「滋賀渡船」は、本史料に見られる「渡船」を品種改良した酒造好適米です。酒米として著名な山田錦の親系統にあたり、一時は県内全域で生産されていました。昭和34年に生産が中止され、長らく「幻の酒米」として文献に残るだけの存在でしたが、平成16年に県が品種保存していた種子から復活を果たしています。(滋賀県蔵)

「富田八郎の事績」 大正12年(1923)

清酒「七本槍」の改良を図った富田八郎の事績書。養蚕業の盛んな伊香郡は、数百年前より桑酒で知られたものの、清酒は低品質で郡内の需要を満たすに過ぎませんでした。代々酒造業を営む富田家の養子となった八郎は、若くより伊香酒の改良を志し、醸造試験場で研鑚を重ねます。その結果、「七本槍」は宮内省御用達となり、品評会でも最優位を占めるようになりました。大正11年には伊香郡酒造組合を設立し、同郡の酒造業の発展に大きく貢献しました。【大え67(47)】

「昭和14年の酒蔵広告」 昭和14年(1939)9月

昭和14年の酒蔵広告

『滋賀県商工人名録』に掲載されている広告。藤居本家酒造(愛知郡愛知川町)の「旭日」や、大星岡村本家(愛知郡日枝村)の「金亀」など、現在も製造されている銘柄が確認できます。また本書では、西川仁右衛門吟醸(高島郡今津町)の「日之出正宗」や、桑原酒造店(高島郡新儀村)の「若恵比寿」など、廃業を余儀なくされた酒蔵の銘柄も見ることができます。【行政資料511】

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