安土城の築城は、織田信長が武田勝頼を長篠の合戦で討ち破った翌年、天正4年(1576)に始まります。築城にあたっては、畿内・東海・北陸から多くの人夫が徴発され、当代最高の技術を持った職人たちが動員されました。まさに安土城は天下統一の拠点となるべく当時の文化の粋を集めたものだったのです。築城開始から三年後の天正7年には天主が完成して信長が移り住み、信長の居城としての安土城は完成しました。しかし、その三年後、天正10年に本能寺の変で信長が殺されると、城は明智光秀の手に渡り、その光秀が羽柴秀吉に敗れたすぐ後に天主・本丸は焼失してしまいます。それでも安土城は織田氏の天下を象徴する城として、秀吉の庇護の元で信長の息子信雄や孫の三法師が入城を果たし、信長の跡を継ぐものであることをアピールします。しかし天正13年、小牧長久手の戦いで信雄が秀吉に屈すると織田氏の天下は終焉を迎え、安土城はその役目を終えて廃城となるのです。その後江戸時代を通じて信長が城内に建てた?見寺がその菩提を弔いながら、現在にいたるまで城跡を守り続けていくことになります。
一方、安土城跡は大正15年(1926)に史蹟に、昭和27年(1952)には特別史跡に指定され、国によって文化財として保護されていくことになります。また昭和15・16年には天主・本丸の調査と仮整備が行われ、昭和35年以降には本丸周辺から黒金門にかけての石垣修理が行われるなど、城跡の整備も進んでいきます。そして平成元年度からは、安土城を未来にわたって永く保存し、広く活用を図っていくために、『特別史跡安土城跡調査整備事業』が20年計画でスタートしました。
安土城は、織田信長が天下統一の拠点として琵琶湖岸に築いた大城郭です。しかし、空前の規模と構造を持つこの城は、築城開始からわずか10年足らずで焼失してしまい、今ではわずかな記録や古文書によってその姿を想像するほかありません。
このため滋賀県では、安土城跡の保存と活用を図るため、発掘調査とその成果に基づく環境整備を平成元年から当初20年計画で進めています。発掘調査によって安土城の実態を明らかにするとともに、調査によって発見された成果を、城跡を訪れる人々に分かりやすく示しながら保存を図っていくために、環境整備を行っています。環境整備では、遺構を大切に保存することを基本として、現状に即した整備を行い、必要な部分のみを復元しています。
発掘調査で検出した踏み石を用いながら、欠損部分については付近で発掘した石材や同質の石材を用いて補い、築城当時の石段を復元しています。両側の石塁や溝についても同様の方法で整備しています。
平坦部は遺構を保護するために透水性の土舗装で覆っています。発掘調査で検出した石組溝や石段の踏み石で欠失した部分は同質石材を用いて復元しています。礎石は原則的に検出されたものをそのまま展示していますが、礎石が小さい場合はその上に保護盛土を行い、直上に模擬礎石を置いて位置を示す等の方法により展示を行っています。
石垣を多用して縄張りを行う近世城郭は、安土城築城に始まります。安土城の石垣は、自然石を巧みにつかって積み上げられています。これらの技術は非常に高度であったため、四百年を経た今も崩れずに、城内にはたくさんの石垣がその雄姿をみせています。整備にあたっては、これら石垣の調査を行い、築城時の石垣を大切に保存することを基本にして、安全のために必要な部分だけを当時の工法で復元しています。
大手道は大手口と城内を結ぶルートです。大手口から直線的に180m進み、主郭部へとつながっていきますが、発掘調査により伝信忠邸跡を通り、黒金門に至るルートと、伝三の丸跡南虎口に通じるルートがあることが分かりました。道幅は直線部で約8mと他のどの城内道よりも広く、また直線部では道の両側に石敷側溝と石塁を持つという構造を有しています。
大手門は現在の石段の麓よりさらに80mほど南に下がった場所にあったと考えられます。門の遺構自体は破壊されていましたが、門の東西にのびる石塁が発見されました。ここからは驚くべき発見がありました。大手門跡の他に虎口を3箇所新たに発見したのです。大手門から東西に延びる石塁の東端から平虎口を1箇所と、西端から枡形虎口1箇所・平虎口1箇所を発見しました。大手門と両脇二門は、天皇行幸のための儀式のために設けられた門と思われ、都城の内裏の門にならったものという説もあります。
この他、大手南面の景観はこれまで石塁まで湖が入り込んでいるように考えられてましたが、陸地がもっと南まで広がっており、現在見られる景観とほぼ同じであることが分かりました。
伝羽柴邸跡と伝前田邸跡は大手道直線部を挟んで両側に位置する屋敷地です。道の西側にある伝羽柴邸跡は上下二段の郭で構成されており、その間を幅2m程の通路(武者走り)が結んでいます。下段部からは城に使われた最古の櫓門と巨大な厩が、上段部からは屋敷の中心施設である主殿、台所とそれを守るための隅櫓が発見されており、一つの屋敷地の建物構成が全て明らかになった貴重な事例ということができます。
道の東側の伝前田邸跡は上下三段の郭で構成されています。大手道から入る虎口は内枡形となっており、その先には厩があり、さらに進むと石段を登って奥座敷につづきます。正面には主殿へあがるための二つの石段があり、南側の広い石段は中心建物へと続く道です。北に延びる狭い石段は、多聞櫓の下をくぐって台所・遠侍に至ります。また多聞櫓の床下にあたる部分から木樋が発見されました。洗い場の水を流すための排水施設だと考えられます。
伝羽柴邸跡・伝前田邸跡からは土器、陶磁器など多数の生活遺物が出土しており、城内で生活が営まれていたことが分かります。また茶器や香炉など嗜好品も出土しており、合戦とは無縁の優雅な生活も存在していたことがうかがえます。
天主・本丸がある主郭は城の中心部であり、主郭外周をめぐる道からは数多くの門や武者隠しなどが発見され、綿密に計画された高い防御性がうかがえます。主郭部北虎口付近やそれに隣接する伝台所郭からは複数の建物礎石が発見されましたが、それらは共通した計画線上に据えられており、互いに独立した建物ではなく、虎口から伝台所郭全体を覆うような一連の大規模な建物であった可能性があることが分かりました。この他、二ノ丸東溜まりでは建物の礎石上に焼け残った柱の部材や建ったまま焼け残った壁が発見され、炎上の様子を生々しく伝えるとともに、城内の建物についての貴重な情報を提供しています。また炎上の跡が発見されたのはこの主郭部の中だけです。
主郭部からは数多くの遺物も出土しています。金箔瓦や金箔鯱、飾り瓦、鬼瓦など各種の瓦類が多数出土しているほか、金具や花器と思われる陶器などが出土しています。
伝本丸跡の調査では、建物礎石を全て確認しましたが、後に豊臣秀吉が建てた、内裏にある天皇の御殿である清涼殿と同じ平面を持つ建物であったことがわかりました。信長と天皇との関係に重要な問題を投げかける発見です。
天主穴蔵部分の調査では、戦前の調査で報告されていた漆喰については使用していなかったことが分かりました。また本柱に伴う側柱の礎石や礎石抜き跡を数ヶ所新たに確認しました。最大の関心事であった穴蔵中央の穴については、前回の調査で攪乱を受けていることが確認され、穴の機能を確定することはできませんでした。また、物理探査を実施した結果、天主台が自然の岩盤層を基礎として、これを整形した上に築かれていることが明らかになりました。天主台の普請の様子が具体的になってきたという点で貴重な発見です。
城下町と城内を結ぶ百々橋口道は唯一記録上に現れる道です。調査の結果、石段は改修されていましたが、ルート自体は変化がなかったことが確認されました。そう見寺は信長が安土城内に建立した寺です。嘉永7年(1854)に主要な建物が焼失して現在の場所に移されましたが、それまでは百々橋口道上で信長の菩提を守り続けてきました。調査では、本堂をはじめ多くの建物跡が発見されました。創建当初のものとしては本堂・拝殿・鎮守社・二王門・三重塔・表門・裏門だけですが、豊臣秀頼が建立した書院・庫裡や、江戸時代中期以降に建てられた数棟の建物跡が発見されています。
搦手道は、安土山の東麓から城内に入る道です。調査の結果、道の下半部では石段を使わないスロープになっているのに対し、上半部は折れ曲がった石段が続くことが明らかとなりました。山裾の部分はかつて湖であったところと接しており、船を通すために浅瀬を掘った溝状遺構が発見されました。またここからは荷札と思われる木簡が出土しており、道の構造と合わせ、搦手道は物資を城内に搬入するためのルートではないかと考えられます。
大手門から百々橋口にかけてでは、石垣の裾から石敷き道を発見しました。この道が大手門前の広場につながることから、この石垣が城の外郭の石垣であると考えていましたが、大手口・百々橋口の中間で2ヶ所の虎口は発見したことで、状況が一変しました。いずれの虎口も周囲の状況から見て堅固なものとは考えにくく、城の内外を区切る虎口とは見られないのです。こうしたことから、この石垣が城の外郭ではなく、石垣の裾を通る道もまた、城外の道ではなく、城内道である可能性が高まりました。
一方、蓮池周辺地区ではこうした石垣や通路の存在は確認できず、上下段の郭同士が虎口で結ばれていることや、伝江藤邸跡ともつながっていることから、ここが城内に位置することを確認しました。城の外郭はもっと南にあったと考えられます。ちなみ現在の蓮池は戦後の整備の中でつくられたものです。
山裾部の郭部からは建物遺構は発見していません。また出土遺物からも生活の痕跡は見られず、南面の外郭部に位置するということからみて、城の防御を担うための郭群であったと考えられます。
安土山と県道大津能登川長浜線との間からは、県道の北約百メートルの地点で、東西方向の石垣を検出しました。石垣は、基礎の部分に胴木(どうぎ)を据えていましたが、胴木は、泥地などの軟弱地盤に石垣を築く際、石が不等沈下を起こして石垣が崩れるのを防ぐために据えるもので、このためこの石垣が堀の石垣であることがわかりました。
またその石垣の延長上から南側に突出した部分を発見しました。突出部の位置は、ちょうど大手門推定地を真っ直ぐ南に下った場所にあたります。そうしたことから、この突出部については、大手門に関連した施設ではないかと考えられます。具体的には、内堀の南側を通る街道から橋を架けるための橋台、もしくは船着き場になるのではないかと推測されています。
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