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【展示】公文書に見る近代の城郭

展示期間 令和元年10月28日(月)~令和2年1月23日(木)

江戸時代が終わるまでは、武士にとって権威の象徴であり藩政の中心でもあった城郭でしたが、明治維新による廃藩置県などによって城郭はそれまでの機能を失い、建築物としても「無用の長物」と化して、その多くが廃城となっていきました。

一方、城郭建築が存続した県内唯一の例として、現在は天守が国宝に指定されている彦根城が挙げられます。彦根城は陸軍省の管轄に置かれ維持されていましたが、老朽化のため民間へ売却され破却となる予定でした。しかし、明治11年の明治天皇行幸の際、供奉していた参議大隈重信の熱意により天守や櫓の保存が決定、さらに陸軍省所管から皇室付属地彦根御料所となったうえで、最終的には最後の彦根藩主であった井伊直憲に下賜され、保存されることになりました。

近世以前のその他の城郭跡も、名所旧跡の調査が行われ文化財としての価値が見直されるにつれ、現代へとつながる保存が行われていきます。

今回の展示では、明治維新後の廃城から近代になって保存の対象となるまでの、城郭がたどってきた変遷を公文書により紹介します。

維新後の諸城

(1)「本多康穰膳所城廃城願写」明治期

明治2(1869)年の版籍奉還により藩知事となっていた膳所藩最後の藩主本多康穰は、翌3年4月、新政府に対し膳所城の廃城を願い出ます。その理由として、湖中に突出している城が風波により破損し、修理に莫大な費用が掛かることが挙げられており、城は「無用ノ長物」と見なされています。行政資料423

(2)「本多康穰宛膳所城廃城許可太政官布達」明治3年(1870)4月

本多康穰から提出された廃城願いは許可され、翌年には廃藩置県により、膳所藩そのものもなくなりました。不要となった櫓や城門などは領内の各地に移転されます。その遺構としては鞭崎神社表門(旧南大手城門)や篠津神社表門(旧北大手城門)などが挙げられ、いずれも重要文化財に指定されています。明う149(25)

(3)「彦根城、当分預け置きの指令」明治6年(1873)5月27日

陸軍省から滋賀県に対し、彦根城の管理を指令した史料です。彦根城は、明治4年(1871)12月に大阪鎮台第二分営が小浜から移されて以来、兵部省や陸軍省の所管に属しており、兵舎として利用されていました。上段の追筆は、指令の心得を諭した初代県令松田道之の直筆と思われます。明あ79(40)

(4)「彦根城釣鐘堂絵図」明治6年(1873)5月27日

城内にあった釣鐘堂はかつて報刻の機能を担っていましたが、分営が置かれた後にその機能を失い、人々は難儀していたそうです。そのため滋賀県に釣鐘が引き渡された明治6年に、有志の人たちの申し出により通行鑑札を所持の上で鐘を撞くことが、陸軍省によって許可されました。【明う2(12)

(5)「旧城郭陳屋等取調出役伺」明治6年(1873)6月3日

明治6年、太政官の指令により廃藩置県で廃城となった県内各所の城郭陣屋が払い下げられることになります。滋賀県では、膳所城、水口城、大溝陣屋、宮川陣屋、西大路陣屋、山上陣屋などが入札に掛けられることになりました。この史料は、そのための調査に関する県官員の伺い書です。明い192合本1(34)

(6)「敦賀県より旧小浜城管理に付、伺」 明治6年(1873)6月5日

敦賀県が旧小浜城の所管について大蔵省へ問い合わせた史料です。当時の敦賀県の史料が滋賀県に残されているのは大変意味のあることと言えます。その理由は、敦賀県の管轄下にあった敦賀郡、大飯郡、遠敷郡、三方郡は明治9年から14年まで滋賀県に編入されていたためでした。わずか5年の「滋賀県に海があった時代」の名残といえます。明あ95合本2(21)

(7)「長浜町略絵図」明治7年(1874)

長浜は、羽柴秀吉が琵琶湖畔に築いた長浜城を中心とした城下町として発展し、大阪夏の陣で廃城となった後は、建材や石材が彦根城に運ばれたといわれています。この絵図は明治初年の長浜の地が色分けして描かれており、近世においても長浜城の縄張りを基に町が形成されていたことが解ります。明へ6(135)

(8)「水口城絵図」近代

水口城は、上洛の際の居館として徳川家光によって築かれました。ただ、一度のみしかその役目を果たさず、その後水口藩2万石の居城となります。将軍専用の御殿は使用されず、二ノ丸が行政の場として用いられました。明治維新にともなう廃城後は、石垣が近江鉄道の線路敷設などに活用されています。明へ78(4)

彦根城の払い下げ

(9)「彦根城売却に付、入札告知」明治11年(1878)9月7日

廃藩置県後、彦根城にも旧体制の「遺物」として破壊される運命が目前にせまっていました。天守も800円で売却されることが決まります。しかし、明治11年の明治天皇行幸の際、供奉していた参議大隈重信の熱意により、天守や櫓の保存が決定したといわれます。【明い99(44)

(10)「彦根城内実測絵図」明治15年(1882)

破却を免れた彦根城は、県が城内の敷地の一部分を勧業試験場の名義で陸軍省から借用し、空地や濠を利用して彦根の人々の就産奨励に活用されることとなりました。その後城内は、各種の共進会や博覧会などの会場、勧業栽培試験場などとして利用されていきます。【明こ59(12)】

(11)「中井弘宛、桂太郎直筆書状」明治22年(1889)12月14日

後に首相も務めることになる、当時陸軍次官の任にあった桂太郎が中井弘知事に宛てた書状です。彦根城の所管変更に関連して、城の評価手続きについての内容が記されています。彦根城はこの後、陸軍省所管から皇室付属地彦根御料所となり、さらに井伊直憲に下賜されて保存されていくことになります。【明か29合本2(6)】

(12)「中井弘宛、井伊直憲直筆書状」明治23年(1890)12月16日

最後の彦根藩主井伊直憲が中井弘知事に宛てた書状です。直憲は桜田門外の変で暗殺された直弼の後嗣となり、幕末維新の政局を乗り切りました。文中には、彦根城の保存に関し、一般に払い下げられ破却されることへの危惧を示し、自らが所有することへの意欲を記しています。【明か29合本2(6)】

(13)「大越亨宛、岩村通俊直筆書状」明治24年(1891)10月6日

岩村通俊は土佐藩出身の志士で、維新後は大久保利通の信頼を得て西南戦争後に鹿児島県令や農商務大臣、御料局長などを歴任しました。この書状は通俊から大越知事に対し、井伊直憲が願い出た彦根御料地の拝借についての手続きを示したものです。実際には、明治27年(1894)5月18日に彦根城の下賜が実現しました。【明か29合本2(13)】

(14)「旧跡調査書-安土城-」 明治31年(1898)

明治30年、社寺だけでは維持・修理が困難な場合に修繕費を補助することを定めた古社寺保存法が、制定されます。同法では社寺以外の名所旧跡も保存の対象とされたことから、滋賀県でも、県内各地で旧跡調査書が編纂されました。安土城跡の保存見込については「維持保存ノ見込更ニ無之国費の補助ヲ仰ク」と記されています。【明せ105合本4(9)】

(15)「史蹟名勝天然紀念物調査報告書-彦根城-」大正9年(1920)10月

大正8年(1919)の史跡名勝天然紀念物保存法の制定により、内務大臣による指定制度がとられ、地方公共団体が国庫の補助を受けつつ管理に当たることとなりました。彦根城は所有者井伊氏、管理者彦根市とされ、調査報告書では保存の費用として約百円が想定されています。【大せ34(15)】

(16)「小谷城址保勝会沿革」昭和2年(1927)10月

小谷城址保勝会は、大正13年(1924)、かつて浅井氏三代の居城で長浜城の築城とともに廃城となった小谷城跡の維持・保存を目的として、設立されます。会長に東浅井郡長、理事長に小谷村長を据え、測量などの史跡調査やパンフレットの作成、展覧会の開催などで城跡の保全に努めていました。【昭く90(3)】

(17)「安土山古写真」昭和3年(1928)10月

この写真が収められた『湖国聚英』は県内の名所旧跡を収めたアルバムです。昭和初期のこの写真は、現在は埋め立てられている城址北側一帯を内湖の湖水が覆う、もはや見ることのできない姿です。往時の安土城は全山を高石垣におおわれ、山頂に5層7重の天主がそびえていたと伝えられています。 【資570】

 

(18)「安土城址見取り図」昭和7年(1932)

本図は江戸時代に描かれた絵図の写本を基に作成されたと思われます。発掘調査を踏まえた図ではないので、天主の形状は実際と異なり、武将名も信憑性に疑問が残りますが、曲輪の形状や位置などはおおむねその後の調査結果と一致します。【昭す16(43)】

(19)「彦根城古写真」昭和12年(1937)

彦根町が市制に替わる際に作成された資料で、昭和初期の彦根城の様子が撮影されています。国宝天守閣や楽々園、玄宮園、佐和口多聞櫓などの他に、昭和19年、軍需品を作るための金属回収によって撤収された井伊直弼像が写されています。【昭こ39(6)】

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