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【展示】溢れる琵琶湖、出征する県民―湖国から見た明治維新(4)―

展示期間 平成30年10月22日(月)~平成31年1月24日(木)

 平成30年(2018)は、明治元年(1868)から満150年という節目の年に当たることから、県政史料室では、1年間にわたって特別展「湖国から見た明治維新」を開催しています。明治後期を対象とする最終回は、日清・日露戦争という2度の対外戦争や、琵琶湖大水害、姉川地震などの大災害に直面する地域社会の動向を紹介します。
 琵琶湖大水害とは、明治29年9月に滋賀県を襲った未曾有の大水害のことです。琵琶湖の水位は約1丈3尺(3.9m)増水したといわれ、沿岸部の町村はことごとく湖水で溢れました。その一方、この水害が拡大した一因には、京都市が琵琶湖疏水の閘門を閉鎖し、水位がさらに上昇したという事情もありました。滋賀と京都は同門の開閉をめぐって、激しい応酬を繰り広げています。
 明治37年2月より始まった日露戦争では、県内から多くの兵士が出征しました。蒲生郡金田村(現近江八幡市)では、遠征する兵士たちに家族の無事を伝えるため、家族や郷里の写真を戦場に送る取り組みを行っています。その一方で、戦場から帰還できない者も少なくなく、東浅井郡竹生村(現長浜市)では、「聊(いささ)カ遠慮ヲ要スル」戦没者遺族のために、忠魂碑を設置しています。
 このように、災害と戦争という非日常の危機の経験は、地域社会に新たな「連帯」の実践と深刻な「亀裂」を生みました。今回の展示では、そのような「危機の時代」における人びとの関係性の変化に着目してみたいと思います。

琵琶湖大水害の発生

(1)「蒲生郡八幡町水災図面」明治29年(1896)9月10日

明治29年8月30日から9月初旬にかけて、滋賀県は非常な豪雨に襲われました。琵琶湖の水位は、約1丈3尺(3.9m)に増水し、沿岸部の町村は湖水で溢れました。この図面は、9月11日に蒲生郡役所が県に提出した水害概況報告の添付図です。郡役所や警察所、裁判所、小学校など、町内の主要建物がことごとく水没しています。特に停車場(駅)付近は水流が激しく、救助船が出されるも押し流され、「空シク傍観スル」ほかなかったようです。【明は10(29)】

(2)「災民救助規則」明治29年(1896)10月5日

水害に被災した住民には、直ちに県より備荒貯蓄金が支給されました。ただし、この救助金は法律により30日以上の支給ができませんでした。そこで県は、災民救助規則を定め、さらに30日を限度(合計60日)として、独自に食料を支給する緊急措置をとります。財源は地方税の救育費で、その対象は身寄りのない一部の被災者にとどまりました。そのため、知事の籠手田安定は、10月12日、臨時の「救済費」を支給するよう内務省に強く訴えています。【明こ195(47)】

(3)「疏水路通水量の義に付上申」明治29年(1896)10月20日

琵琶湖大水害の被害が拡大した一因には、9月8日に京都市が琵琶湖疏水の閘門を閉鎖し、水位がさらに上昇したという事情もありました。焦った県は、同月13日、速やかに規定の水量を通水するよう京都府に求めました。しかし同府は、閘門の開閉は京都市の「専権」だとして固く拒みます。本文書は、県から内務省に提出した上申書で、京都府の態度を「条理ニ背キタルモノ」と強く非難し、至急開門して通水させるよう求めています。【明ね39(40)】

(4)「瀬田川洗堰築設の義に付上申」 明治29年(1896)10月26日

水害発生当時、淀川(瀬田川)改修工事の一環で、滋賀郡石山村大字南郷に「洗堰」を建設する計画が立てられていました。この堰が完成すれば、瀬田川の流水量が自由に変更できるようになるため、滋賀県民にとっては、水害被害が拡大しかねないと、従来から危機感を強めていました。そして実際、琵琶湖大水害の際には、疏水閘門が閉鎖されたこともあり、県は内務省に対して「公平至当ノ計画」になるよう、強く念をおしています。【明ぬ147(22)】

府県制・郡制の施行

(5)「郡制施行順序」明治30年(1897)5月

「郡制」とは、府県と町村の中間に位置する郡を地方自治体として定めた法律です。明治23年5月に公布され、従来は単なる行政区画に過ぎなかった郡に議決機関である郡会・郡参事会の設置が可能となりました。しかし、滋賀県では郡の境界をめぐる紛争が長期化したため、その施行は同31年4月まで延期されることになります。本文書は、郡制実施に向けた日程表で、議員の投票日や郡会開催の日程などが細かく記されています。【明こ8(2)】

(6)「郡衙位置の儀に付陳情書」明治30年(1897)9月3日

野洲郡野洲村ほか7か村人民惣代が県に提出した陳情書。郡役所を同村停車場(駅)付近に設置するよう求めています。もともと野洲郡役所は、郡制公布直後は中山道の宿場町として栄えた守山村に置くことになっていました。しかし明治24年6月、野洲村に湖東鉄道(現JR琵琶湖線)の停車場が設置されると、同村が郡内交通の中心地となるのです。野洲村らは、同村に郡役所の位置を変更することが郡内の「公論」「公益」に沿う道だと訴えました。【明こ188(2)】

(7)「東浅井郡県会議員選挙要領書」明治31年(1898)8月15日

明治23年5月は、郡制とともに、府県制度を定めた法律「府県制」も公布されていました。ただし、滋賀県では長らく郡制が施行されなかったために、同法も延期され、31年8月になって施行に至ります。それにともない、県会議員は、郡会議員と郡参事会員の投票(複選制)で選出されることになり、定数も53名から30名に激減しました。ただし、翌32年3月に府県制が改正されたため、滋賀県で複選制が用いられたのは、31年のみでした。【明き46合本1(10)】

(8)「県参事会議事録」明治34年(1901)

府県制の施行にともない、明治31年9月、県参事会と呼ばれる副議決機関の運営規則が定められます。同会は県知事、高等官2名、名誉職参事会員4名(県会で互選された県会議員。後に6名に増員)で構成され、県会の委任を受けた事件や、緊急性を要する事件などの議決権をもちました。同会の議事録は、明治34年度以降のものが残されており、その決議録は議会事務局が保管しています。【明き27(2)】

日清戦争と日露戦争

(9)「軍隊労苦慰籍のため出金願い」明治27年(1894)8月3日

明治27年8月1日、明治天皇は宣戦の詔勅を発布し、清国に対して宣戦布告を行いました(実際の戦闘は7月25日から)。翌2日、滋賀県は恤兵事務取扱委員を設置し、軍事援護事業を本格化させていきます。本文書は、その翌日に内務秘書官の安広伴一郎から、県知事大越亨に宛てた書簡の写しです。兵士の労苦をいたわるため、県官員の有志に「夫人ノ名義」で出金を促すよう求めています。同月7日、知事夫人の大越花子らは、募金を呼びかけました。【明か30合本2(7)】

(10)「台湾征討慰労資募集の件」明治28年(1895)10月22日

日清両国の戦争は、明治28年4月17日、下関(山口県赤間関市)で結ばれた講和条約で終結を迎えます。しかし同条約で日本に割譲が決まった台湾は、反発を強めて「台湾民主国」として独立し、日本軍との戦闘が継続されました。10月21日、同国は拠点の台南を失い、崩壊を迎えます。本文書は、その翌日に再び、大越花子らの名義で出された募金の呼びかけ文案です。県官員の手によるものですが、兵士の「慰労」は女性の役割とされたようです。【明ひ6合本1(2)】

(11)「蒲生郡金田村戦時事績」明治40年(1907)6月13日

「戦時事績」とは、日露戦争の戦中・戦後に取り組まれた軍事援護事業の報告書です。明治39年10月の県訓令に基づき、町村ごとに作成されました。本文書によれば、蒲生郡金田村では、遠征する兵士たちに家族の無事を伝えるため、軍人保護義会という団体を設立したようです。同会には写真部が置かれ、家族や郷里の写真が兵士たちに送られました。その事業は知事の目にも止まり、数々の慰安事業のなかでも「最モ斬新ナルモノ」との評価を受けています。【明ひ15(4)】

(12)「明治三十七八年役忠魂碑の図」明治40年(1907)2月14日

東浅井郡竹生村(現長浜市)戦時事績の添付図です。描かれた忠魂碑は、明治39年10月、戦没者の「功績」を讃え、その「偉名」を後世に伝える目的で建設されたものです。その教育的効果が重視され、「国民ノ養成所」である小学校前が建設地に選ばれました。兵士たちの生還は村の慶事でしたが、戦没者の遺族に対して「聊カ遠慮ヲ要スル」雰囲気もあったようです。そのため、同年4月の祝賀会前の竣工が目指されましたが、結局は間に合いませんでした。【明ひ16(10)】

古社寺保存法の成立

(13)「西明寺境内見取図」明治28年(1895)11月15日

明治28年3月、古社寺は日本美術の「淵源」であり、国家による文化財保護の重要性を説く建議書が、衆議院で可決されました。その翌月、内務省は道府県に管内の古社寺調査を命じます。本図はその訓令を受け、犬上郡長が県に提出した「古寺取調書」に添付されたものです。描かれている西明寺本堂は、明治30年6月に古社寺保存法が制定されると、同年12月に県内第1号となる特別保護建造物(後の国宝に相当)に指定されています。【明せ19(37)】

(14)「古建築物取調書(西明寺)」明治33年(1900)4月23日

明治31年12月、内務省は再び、由緒ある社寺堂の建築物調査を道府県に命じています。今回の訓令では、古社寺保存法の制定を受けて、300年以上経過した建築物に特化した調査がなされました。そのため、本調書は、社寺の公的管理台帳である「社寺明細帳」とは異なり、建築そのものの沿革や構造、図面等が詳細に記載されています。承和年間の建立と伝えられる西明寺本堂は、医王善逝(薬師如来)のおかげで、「千古ノ美観」が保たれているとのことです。【明せ24(27)】

(15)「特別保護建造物修理台帳」明治31年(1898)12月3日

滋賀県における特別保護建造物の修理は、明治32年7月着工の西明寺本堂が最初でした。明治31年2月、県が定めた社寺建造物修理及会計規則によれば、修理工事の目的は「旧観ヲ保存スル」こととされ、創建当時の形式が尊重されています。総修繕費1万1868円79銭の内、1万918円79銭(92%)が内務省より下付されました。同寺は明治35年6月に竣工し、昭和4年までに本県では42件(55棟)の特別保護建造物が修理されました。【明せ60合本2(1)】

(16)「安土山(織田信長古城跡)」明治33年(1900)4月23日

古社寺保存法では、社寺に関わりのない「名所旧蹟」も保存の対象とされました。そのため、明治31年12月の内務省訓令では、「永遠ニ保存スルノ必要」ある名勝旧蹟の調査も含まれました。織田信長の居城があった安土山もその対象となり、現状と由来が細かく記されています。維新後は、旧柏原藩主の織田信親が毎年50円寄附していたものの、明治15年より半額となったため、今後の維持保存の見込みがつかないと、国費補助を要望しています。【明せ105合本3(9)】

「地方改良」の時代

(17)「国費救助の件」明治41年(1908)7月8日

生活困窮者に支給される町村の救助総額は、明治20年代末から急増し、明治30年代は平均3,805円にもおよびました。それに合わせて国からの救恤額も増え、同時期の平均額は2,183円となっています。これに危機感を強めた内務省は、明治41年5月21日、恤救規則の本旨を強調し、「濫給ノ弊」をなくすよう求めました。同年7月には、県より各郡市にその旨が伝えられ、その結果、国からの救恤を受けていた者全員が給付を打ち切られることになります。【明い272(62)】

(18)「蒲生郡鎌掛村の貯蓄組合(満月会)」 明治42年(1909)

明治41年10月、第二次桂内閣は勤勉と倹約を強調した戊辰詔書を発布し、国民生活の引き締めを図りました。同43年には、甲賀郡伴谷村や蒲生郡鎌掛村がその奨励地方団体として表彰されています。鎌掛村では、同27年5月に満月会という貯蓄組合を結成し、村民は毎月所得に応じて、甲種30銭、乙種15銭、丙種3銭ずつ積み立てていました。同村のように、勤倹貯蓄に励んで公費に頼らない町村は、「模範村」として褒め称えられたのです。【明え266合本2(2)】

(19)「感化院設立の趣旨(修斉館)」明治42年(1909)4月

修斉館とは、湖北3郡の大谷派僧侶(修斉会)が坂田郡西黒田村に設立した感化院です。その設立趣旨文には、不良少年も周囲の境遇により「社会ノ害物」になったのであって、教育や信仰を通じて「有用ノ人物」になりうるという信念が示されています。運営費は修斉会員の寄付金に加え、県郡村や大谷派本山の補助金で賄われました。ただし経営は困難を極めたようで、大正2年12月に報恩学園と改称した後、同4年8月に解散の憂き目にあっています。【明そ11(1)】

(20)「隣接居住者の相互救療に関する件」 大正元年(1912)10月3日

明治44年(1911)5月、貧困者の「施薬救療」を掲げる恩賜財団済生会が、皇室の下付金と民間の寄付金により創設されます。病院の設立と施療券の配布が主な事業で、各府県では委託を受けた病院・医師が貧困者の診察・治療を行いました。本文書は、京都府が滋賀県に宛てた照会文で、府県境に近い患者が、両府県の病院を利用できるよう提案しています。滋賀県はその案を受け入れ、その後は福井・岐阜・三重各県とも同様の取り決めを交わしました。【明そ12(36)】

姉川地震と震災記録

(21)「震災事務日誌」明治42年(1909)8・9月

明治42年8月14日、滋賀県北東部の姉川付近を震源地とする大地震が発生します。後に「姉川地震」と呼ばれるこの地震は、東浅井・坂田・伊香3郡に甚大な被害をもたらしました。本文書は、県の森林課が作成した震災後の事務日誌です。それによると、同課では翌15日より県営苗圃事業の被害状況や、被災者の避難状況などを視察していたようです。18日には、全壊した東浅井郡役所など、各地の被害状況を撮影しています。【明ち319合本6(1)】

(22)「罹災者救恤に付き金員下賜の件」明治42年(1909)8月21日

震災から1週間後、宮内省は罹災者救恤のため、滋賀県に1500円の下賜金を決定します。8月23日には、侍従北条氏恭(河内狭山藩最後の藩主)が滋賀県に遣わされ、被災地の状況を視察しました。知事官房はその前日、出迎える官員や郡長に対して、北条が「シルクハツト」を被り、「フロクコート」を着用していると、その特徴を伝えています。北条は29日まで滞在し、京都に向かう途中の馬場駅で森林課作成の「震災地写真帖」を受け取ったようです。【明え112(227)】

(23)「臨時救療所設置規程」明治42年(1909)8月27日

明治42年8月15日、東浅井郡役所は郡内5か所に治療所を設置し、近隣の医師の協力を得て、被災者の治療にあたりました。日本赤十字社滋賀支部も救護班を組織し、同所にのべ33名の医者・看護婦などを派遣しました。しかし同社は、月末には引き揚げる予定であったため、郡役所は県医師会東浅井郡支部と交渉して、新たに臨時救療所を設置します。この救療所は、虎姫村大字五村に置かれ、被災した負傷者や、貧しい患者の治療を担いました。【明ふ158合本3(5)】

(24)「震災記録(東浅井郡)」明治43年頃(1910)

東浅井郡役所が県に提出した震災記録。「総説」「救恤」「社会ノ同情」「善後策及復旧」「其他」の5章構成で、被災状況が詳細にまとめられています。これによれば、被災後は様々な「蜚語流説」(根拠のない噂)が流れたようです。例えば、明治42年は「死に年」に通ずるとして、8月28日に死に至る灰が降るという噂がその1つです。人びとはその死から免れるために、「秘法ノ栗飯」を買い求めたようで、噂を流した「山師」は、後日逮捕されています。【明ふ162合本1(17)】

お問い合わせ
滋賀県総合企画部県民活動生活課県民情報室
電話番号:077-528-3126(県政史料室)
FAX番号:077-528-4813
メールアドレス:[email protected]
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