展示期間 令和元年5月7日(火曜日)~令和元年7月25日(木曜日)
近代以降、滋賀県には多くの皇室の方々が御訪問されています。5月1日、新たに即位された天皇陛下も、昨年5月をはじめ、皇太子時代に度々ご来県され、県民との親睦を深められました。
また、本県には、行幸をはじめ、献上品や陵墓に関するものなど、皇室と関わりの深い歴史的文書が数多く残されています。中には、皇室の方々が食された地元の食材をふんだんに用いた献立表や、昭和26年に戦後初めて昭和天皇が県内を巡幸された際の写真などもあります。
そこで、今回の展示では「皇室と滋賀県」と題して、近代以降の行幸を中心に本県と皇室との関わりをご紹介したいと思います。難しいイメージのある公文書ですが、身近で親しみやすいものもございますので、ぜひご覧ください。
天皇の践祚(天皇の位につくこと)から、即位の礼(一般に即位を公示する儀式)、及びその後に行われる大嘗祭(即位後初めて行う新嘗祭)をまとめて大礼といいます。この文書は、明治天皇の大礼について記したもので、これまでの唐の模様の礼服は着用しない等の指示が出されています。【明あ2(107)】
大正天皇の即位の礼では、京都での儀式の時間にあわせて、全国の学校で大礼奉祝儀式が行われました。史料は、その儀式の開始時刻を指示するものです。開始時刻は、紫宸殿で内閣総理大臣が万歳を唱える時間にあわせて学校でも一斉に万歳奉唱が行えるように、午後2時からとされました。【大か19(12)】
国家を上げた儀式の一方で、民間でも大礼を記念して様々な行事が行われました。これは県内で行われた一般奉祝の報告書です。野洲郡では、工夫を凝らし奇抜を競って人物や器物、動物等に変装して自転車で郡内をまわり、沿道には参観者も集まり「未曾有ノ盛況」であったようです。【大か21合本3(5-3)】
大嘗祭で供える米を作る田を悠紀・主基斎田といいます。昭和の大嘗祭の悠紀斎田には、野洲郡三上村の粂川春治の田が選ばれました。この史料は、その時の候補地調査書です。念入りな聞き取り調査によると、粂川氏は「酒くせナシ」「性格温厚」「家庭円満」で、村民からも尊敬されていたようです。【昭た452(12)】
明治11年に明治天皇が来県した際の日誌です。右大臣岩倉具視や参議大隈重信・井上馨をはじめ、約400人の随行者を伴う大規模な巡幸に備え、当時の県令籠手田は、巡幸前に県内訪問予定地を点検してまわり、同時に近隣区戸長を集め「人民ノ不敬」や「無益ノ虚飾」を行わないように説きました。【明か3合本2】
明治43年の東宮(大正天皇)来県時、知事が治績報告を行う際の参考資料のひとつとして作られた写真帳の表紙図案です。常緑の松は滋賀県の「繁盛」を、城石は「滋賀ノ特徴」でもある多くの古戦場を表しており、獅子には「将来ヲ誇ルベキ県トシタシ」という思いが込められていたようです。【明か13(20)】
この史料は、大正7年に皇太子の裕仁親王(昭和天皇)が来県した際の、県内の準備や当日の様子などが記された記録です。道路には土砂や砂利で穴埋めをし、前日から念入りに清掃が行われました。また、随所に緑門を設置し、湖上には装飾した蒸気船を浮かべて、皇太子を迎えたようです。【明か10(1)】
本県をよく訪れた皇室のひとりが高松宮宣仁親王です。昭和天皇の弟である高松宮親王は、昭和13年に近江神宮奉賛会の総裁に就任して以降、毎年のように来県しています。近江神宮の造営視察や社寺の参拝、近江兄弟社やレーヨン工場などの社会事業・産業施設の視察も行いました。【昭か28(19)】
明治11年の明治天皇行幸の際の県内の行程を記した絵図です。このときの行幸では、東京-京都間を馬車で約20日かけて移動しました。絵図によると、天皇は石川県から当時は滋賀県の管轄であった敦賀郡(現・福井県)へ入っています。また、絵図では当初の予定であった東海道から三重県へ入るルートが描かれていますが、実際には三重県下に疫病が流行していたことによりルートを変更し、中山道を通って岐阜県に入るルートがとられました。【明か22合本3(5)】
明治20年の明治天皇還幸では、主な交通手段として鉄道が用いられました。しかし、まだ鉄道のなかった大津-長浜間では湖上汽船が利用されました。これは、そのとき乗船した第二大湖丸の図面です。乗船時間はおよそ3時間30分でした。【明か6(2)】
明治22年東海道線(新橋-神戸間)が全通します。天皇の行幸における新橋-神戸間の所要時間は通算15時間47分と、格段に早く移動することが可能となりました。またダイヤグラムの導入により各駅の通過時刻が正確に割り出され、本史料のように事前に通知されるようにもなりました。【明か9合本1(26)】
昭和26年の行幸の際、天皇は自動車で県内各地を巡幸しながら琵琶湖を一周しました。沿道の子供たちの中には「やねのないじどうしゃやとおもったら、ちがってちょっと、つまらない」という子もいたようです。【滋賀県所蔵】
明治23年来県の際、明治天皇は県庁で琵琶湖固有種のヒガイを食し、これを大層気にいったようで、その後も度々ヒガイを取り寄せたといいます。この出来事により、これまで漢字のなかったヒガイに「鰉」という字があてられました。史料は、明治天皇に随行していた親王、大臣らが食した献立表です。ヒガイに漢字がなく、カタカナで書かれていることがわかります。【明か4合本2(42)】
大正6年11月、滋賀県彦根町で陸軍特別大演習が行われ、大正天皇は13日から6日間、滋賀県に滞在することとなりました。そこで県では、新鮮な多くの食料を期間中滞りなく調達する必要が生じ、あらかじめ宮内省大膳寮(食事や餐宴を担当していた部署)と調整を行うとともに予定献立の内示も受け、調達の準備にあたりました【資510】。専用の温室などを設けるとともに、県内各地から食材が集められ、魚介類だけでも19種類が用意されました。【大か8合本1(7-94)】
高松宮親王が琵琶湖ホテルに宿泊した際の夕食メニューです。外国人向けに設計された琵琶湖ホテルでの食事は洋食がメインで、料理の構成も、前菜・スープ・魚料理・肉料理・デザートとなっています。翌朝にはトーストや紅茶が出されたようです。色彩豊かなメニュー表の装飾も目を引きます。【昭か25(14)】
高松宮親王が養鱒場でとった夕食の献立表です。皇室の食事は、視察先の施設で行われることもあったようです。高松宮親王が醒井養鱒施設を訪れた際には、その場で、鱒をふんだんに用いた食事が出されています。食事も視察の一環であったようですね。【昭か26(1)】
“長寿の果実”「郁子(むべ)」(アケビ科)は、古来から歴代天皇へ献上されてきた果実です。この史料はむべの献上を願出たもので、むべの産地蒲生郡奥島の福居千之助から提出されたものです。昭和天皇へもむべを献上したいというこの願は認められ、鉄道便で宮内省まで送られました。【昭か86(5)】
明治神宮の造営時には、全国から多くの献木がありました。滋賀県も様々な木々を寄付しましたが、中でも、近江八景で有名な「名木唐崎松ノ種子ヨリ発生シタル小松」は「献木トシテ最モ適当ノモノ」として送られました。写真には、神宮宝物殿前石橋の右側に植栽された黒松が写されています。【資582・583】
皇室への献上品の中には伝統的なものだけでなく、当時最先端の工場製品もありました。それが、天然繊維にかわる新しい繊維として脚光を浴びていたレーヨンです。その製造企業である旭絹織株式会社(大正11年設立)からは、「我国最初ノ国産品」として「旭絹絲」などが献上されました。【大か22(86)】
昭和26年昭和天皇行幸の際、信楽窯業試験場の正門際には日の丸の旗をもった信楽焼のタヌキが十数個並べられ、天皇を出迎えました。天皇はそれを見て、「をさなどき あつめしからに なつかしも 信楽焼の狸を見れば」と詠みました。この歌をきっかけに信楽焼のタヌキは有名になったといいます。【滋賀県所蔵】
明治4年、明治政府は未確定陵墓の確定作業を行うこととし、弘文天皇(大友皇子)陵についても候補地の調査が進められました。調査段階で最も有力と考えられていたのが、これまで古墳があることすら知られていなかった滋賀郡錦織村の皇子山古墳でした。これはその皇子山の絵図です。【明せ99(79)】
皇子山が第一候補とされる一方で、当時の籠手田県令は亀丘説を主張します。この史料は、その主張と亀丘が陵墓と治定されるまでの経緯を記した文書です。籠手田の説には社寺掛をはじめ多くの者から異論がありましたが、亀丘から古鏡などが発掘されたことにより、最終的に亀丘に治定されました。【明せ99(83)】
明治天皇が彦根城を保存するよう指示したことを伝える文書です。廃藩後、兵部省、続いて陸軍省の所管となっていた彦根城では、不要な建造物が撤去されつつあり、ついに本丸・天守などまでが入札にかけられることとなりました。しかし、この話が明治天皇の耳に入り、取り壊しを免れたのでした。【明あ112(49)】
大正から昭和初期にかけて、明治天皇が訪れた場所や建物などを「明治天皇聖蹟」として保存する運動が盛んに行われていました。明治天皇が来県時使用した旧県庁正庁もそのひとつで、昭和14年の庁舎改築の際にも移築保存されています。史料は聖蹟を示すために建てられた石碑の図面です。【昭の5(62)】