展示期間 平成31年1月28日(月曜日)~平成31年4月25日(木曜日)
琵琶湖沿岸地域の中でも特に湖上交通の要所として知られていた大津の地は、明治後期から昭和初期にかけて私鉄網が大きく発達した地域でもありました。
明治43年に京都三条-大津札の辻間を運行する京津電車が設立され、次いで翌明治44年に坂本-石山間を運行する大津電車が設立されます。また、当時湖上においては太湖汽船や湖南汽船が航路を開いていました。大正期に入ると、大阪から京都三条まで運行していた京阪電鉄は、湖上観光客の獲得を目指して、まず京津電車と合併、大津まで路線を延伸します。次いで昭和4年(1929)、大津電車と太湖汽船の合併により設立されていた琵琶湖鉄道汽船との更なる合併によって、坂本や石山に至る路線網を構築するとともに関西からの湖上観光客をも取り込むことになります。今年は、京阪電鉄が現在の形となったその合併からちょうど90年となります。
今回の展示では、京阪電鉄が関西と湖都大津・琵琶湖に至る路線をつないだ過程を史料により紹介します。
大津を中心とする私設鉄道の運転開始はいずれも大正期に入ってからですが、明治期にもいくつかの計画は存在していました。この史料もその一つで、京都-大津間の鉄道敷設が西村夘兵衛、他18名により出願されています。しかし内務大臣井上馨によりこの願いは却下されました。 【明に26(48)】
旧東海道筋に沿って大津と京都を直結する鉄道敷設計画は、明治37年頃から次第に具体化し、大津商業会議所会頭の西川太治郎が発起人となる京津電気鉄道から軌道敷設が出願されます。しかし京都電気鉄道と近畿鉄道も同一区間の鉄道敷設を請願しました。交渉の末に三社は妥協し、京津電車に特許状が付与されました。【明と79(3)】
京津電車に次いで大津に開業したのが、大津電車軌道です。明治39年、幕末の越前藩を主導し明治政府の経済政策も担っていた由利公正や大津市長村田虎次郎らが発起人となった会社で、電車や軽便鉄道など同時に進行していた他社からの4つの請願を合流する形で、創立されました。【明と81(24)】
湖南鉄道は大正2年に設立された会社です。8.7キロの行程は、狭い軌道で小型車両の鉄道を走らせる軽便鉄道の方式によるもので、近江八幡を起点として八日市に至っていました。昭和2年1月には太湖汽船の主導により、大津電車軌道との三社合併に加わり琵琶湖鉄道汽船に参画します。【明と92(16) 】
湖南汽船は明治19年、谷口嘉助を社長として資本金30万円で設立されました。 紺屋関港を中心に発展を遂げ、ライバルの太湖汽船と汽車連絡権獲得競争を繰り広げます。明治27年には大津-石山、大津-坂本間の定期航路運航を開始し、遊覧汽船に営業の方針を転換しました。【明え283(27)】
明治期の大手私鉄・関西鉄道の設立及び起業請願書です。関西鉄道は、政府が敷設予定の湖東線(東海道線・大津ー長浜間、明治22年開通)と連絡する草津ー四日市間を基幹に、関西一帯へ鉄道網を広げました。しかし、明治39年の鉄道国有法により、国有鉄道「草津線」(現・JR草津線)となります。【大と7(3)】
明治40年に軌道敷設が免許されていた京津電気軌道は、明治43年3月28日、京都商業会議所で130名が出席して創立総会が開かれ、正式に発足します。総株数3万株、資本金は150万円にのぼり、初代社長には奥繁三郎が就任しました。【明と82(21)】
この年の8月、京都三条-札の辻間が開通します。途中、12箇所の停留場が設けられますが、札の辻-浜大津間は、突き抜け通りの拡張工事が付近住民の反対などで難航したこともあり、大正14年までその完成を待ちました。県下で初めての電車開通は、木造の電動客車として多くの市民に親しまれました。【明と87(58)】
社長に就任した奥繁三郎は衆議院議長も務めた人物で、京津間の連絡電車構想に早くから興味を抱いていたといわれます。後に京津電車と京阪電鉄の合併を持ち込んだのも彼でした。また常務取締役の羽室亀太郎は比叡登山鉄道の創立委員も務めた人物です。【大と29(17)】
大津電車は、明治40年9月、滋賀郡石山村から膳所町・大津市・滋賀村を経て坂本村に至る軌道敷設が免許され、同42年6月大津市内・滋賀郡内立ち入り測量許可を得ます。建設工事は順次進められ、同44年1月創立総会が開かれ、資本金50万円のもと、磯野良吉が社長に就任しました。【明と88(19)】
大津電車は、当初の計画では大津市内の浜通りを拡張して軌道を敷設する予定でしたが、多額の工費を要したため大津-馬場間は鉄道院(鉄道行政の中央官庁)の大津線貸下げを請願し、共用することとなりました。そのためこの区間は狭軌と広軌からなる三本レールという珍しい形態の複線でした。【明と90(18)】
京阪電鉄と京津電車は、大正初年から共に連絡乗車券を発売するなど、業務上の協力関係を深めていました。大正11年には当時衆議院議長でもあった京津電車社長奥繁三郎から合併の打診があり、合併条件は必ずしも対等でなくてもよい、との意向が京阪側に示され、その動きが加速します。【大と6(22)】
大正13年8月30日、京阪電鉄社長岡崎邦輔と京津電車常務羽室亀太郎との間に合併仮契約書が結ばれ、翌14年2月1日、正式に合併を果たします。当時の京津電車は株の配当が1割2分ほどでした。京津電車は解散することとなり、従来の軌道線路は、京阪電鉄京津線と呼ばれることとなります。【大ぬ158(16)】
京阪・京津の合併にあたり京津電車の一部の重役には反対の動きもあり、彼らは三条から出町柳までの電鉄特許線を申請していた京都電灯との合併を模索します。京阪電鉄は京都電灯と交渉して京津の電灯供給部門を京都電灯に譲渡する条件を示し、その上で京津電車との合併を果たしました。 【大ぬ138(3)】
大正11年の線路敷設出願時は京津電車の路線だった浜大津-札の辻間も、大正14年5月5日、京阪電鉄の線路としてようやく開業に至ります。浜大津への路線延伸により、京阪電鉄の路線は大阪から大津までと伸びることとなりました。【大と27(2)】
太湖汽船は、経済の不況や江若鉄道開設の影響を受け、遊覧船・定期船共に打撃をこうむっていました。また、京阪電鉄と協力を進めるライバル湖南汽船の進出にも対抗するため、大津電車軌道との合併に踏み切ります。これに湖南鉄道も加わり、新会社琵琶湖鉄道汽船が誕生しました。【大と50合本2(2)】
新たに誕生した琵琶湖鉄道汽船でしたが、事業を広げる京阪電鉄の前に必ずしも経営は好転せず、社長の藤井善助は京阪との合併交渉に乗り出しました。そして昭和4年4月11日、両社は合併を実現します。この合併によって、京阪電鉄は琵琶湖遊覧機関との連結を果たし、京都市内から湖上までの利用客を取り込んだのでした。【大と41合本3(2)】
緑ヶ丘運動場は、かつて全国中等学校優勝野球大会(現全国高等学校野球選手権大会)の京津予選が開かれていた球場です。そのため、仮停留場が京阪電鉄によって追分駅と四宮駅の間に建設され、大会期間中の10日間のみ、上り線乗客が降車することができました。【大と20合本2(15)】
京津線三条停留場の地は、江戸時代から東海道の終点として栄える交通の要所でした。当時は、東海道線の京都駅に至るルートが現在より南に迂回していたため、京都-大津間私設鉄道計画の多くは繁華街である三条を出発地と想定したものでした。【昭と27(3)】
浜大津駅周辺の地域はかつて大津城や大津代官所があった大津の中心地でした。京阪電車は琵琶湖鉄道汽船との合併後、浜大津駅から左右に分かれて東西二線で琵琶湖鉄道汽船の既存線路に結びつけ、京都-石山間と京都-坂本間の直通運転を運行します。【昭と6合本1(1)】