展示期間 平成30年4月23日(月曜日)~平成30年7月19日(木曜日)
平成30年(2018)は、明治元年(1868)から満150年の年に当たります。明治改元以後45年間におよぶ明治時代は、政治・経済・文化などあらゆる分野で、日本社会が急速に近代化した時期でした。
そこで、今年の展示企画では、全4回にわたって、明治時代の滋賀県政の歩みを振り返ることとしています。今回は、4月23日から「文明開化と滋賀県―湖国から見た明治維新2.―」と題して明治11年から同21年頃までを取り上げた展示を、以下のとおり開催いたします。
この期間は政府の動向と連動して、はじめての県会議員選挙や郡役所の開庁など、県内における地方制度の基盤が築かれていきました。また、鉄道路線の開通や草津川隧道、そして田川カルバートなどの土木事業も新しい技術のもと行われていきます。
近代滋賀県の基盤が形成されはじめた、この時期の様子がかいまみれる公文書を一挙公開しますので、ぜひご覧ください。
近代に入り学校教育の充実が図られる中では、それを指導する教師の育成も急務でした。大津師範学校は、東本願寺別院に校舎を新築して設立された、教授法の伝達講習と小学校教員養成の両面を行っていた学校です。この史料に記されているように、県権令籠手田安定は3月11日、開校式に臨みました。【明い102合本5(18)】
女子就学率上昇のため女子教員の必要性が高まります。女子は男子に比べると就学率が低く、その改善のため小学校に裁縫科設置の動きが出てきました。その教員養成のため設けられた女子師範学科では、12名の生徒が裁縫や調理、洗濯、習字などを学んだといわれています。【明い112(22)】
明治12年、それまでの書籍縦覧場から改称された当施設は、一般に公開・貸出が行われた、現在の図書館に当たるものです。貸出希望者は、自己の姓名を記したうえで本を借り受けることが可能でした。破損した時の弁償額も細かく定められており、貴重書の場合は1円以下となっていました。【明い137(71)】
彦根製糸場は、明治11年6月16日に開業式を迎えました。働き手が不足する富岡製糸場で修行を積んだ工女たちが彦根に帰り、関西では数少ない器械製糸場として士族授産と殖産興業の一翼を担います。そして県内各地の製糸業に大きな影響を与えました。【明さ100(1-2)】
彦根製糸場の操業当初は、地所買い上げ費用をはじめ建物費・器械費・雇用人給与など多くの費用が必要となりました。その額は9,554円にも上り、県勧業課の保管金から支出がなされました。原料となる繭の購入資金については、内務省に請願し拝借金1万円を得ることで乗り切っています。【明さ101(2-16)】
顕証寺は、大津南町札の辻(現大津市)にあり、6,148坪の敷地がありました。明治12年2月8日から始められた県会議員選挙の会場やその後の県会の舞台でもあります。また明治2年1月に円満院へ移転するまでの間、大津県庁舎としても利用されていました。【明す443合本2(3)】
明治12年2月8日の滋賀郡を皮切りに、県下初の県会議員選挙が各郡で開催されました。総員64名の議員が、満25歳以上・地租10円以上納入などの条件を満たした有資格者から選ばれます。その内訳は、一定の地租納入者という資格要件のため、都市より郡部が圧倒的に多いものでした。【明い97(74)】
当選した県会議員は県令籠手田安定に召集され、顕証寺において議会開場式に臨みました。県会運営の未熟さを考慮した籠手田から二日間にわたり、議事運営の講習を受けたといいます。当時の県会は、審議の範囲が地方税のことに限定され、官尊民卑の風潮が強かったことが、その特徴でした。【明い104(22)】
前年、公布された郡区町村編制法を受け、滋賀県でも新たに16郡が設置されました。郡長は県令によって任命され、俸給は地方税によって支出されます。一方、町村の指導者である戸長に関しては、町内に不動産を有する満20歳以上の男子という条件を満たす有資格者から、民選によって選ばれました。【明き1合本2(5)】
官選された16郡の郡長は、当初、県会議員の中から県会において選出する予定でしたが、内務省の意向により県官吏や地方名望家の中から官選されることになりました。神崎郡長に名の見える武笠資節は、犬上郡選出の県会議員として初代県会議長も務めています。【明い105(52)】
工部省からの通達を県がまとめたものです。明治11年8月、京都・大津間の延長工事が起工されますが、この時のルートは現在のものとはかなり異なっていました。当時の大津駅は湖上運輸との利便性を図るために湖岸沿いに設置されたためです。【明と3合本4(1-1)】
明治11年10月から着工した工事で、最大の難所は逢坂山のトンネル工事でしたが、鉄道頭である井上勝自らが技師長となり工事に臨みます。井上のもと、工技生養成所卒業生を中心とした工事は、初めて日本人のみで成功を収めました。結果、この後の鉄道建設は、欧米人の手を離れていくことになります。【明い99(3)】
旧長浜駅は、明治15年(1882)に竣工した本格的な洋風建築でした。現在は本館のみが残されていますが、駅舎本館としては日本最古の遺構として知られています。建築史上・交通史上の重要性を評価され、昭和33年(1958)、第1回鉄道記念物に指定されています。【明と24合本1(14)】
この絵図は、敦賀港に面した市街地の町割り図で、各町名が見てとれます。明治9年より敦賀港は滋賀県に属しており、北陸道で琵琶湖水運と連結する交通の要所でした。明治14年に福井県が分離するまでの約5年間、滋賀県は日本海に面していたことになります。【明す535(4)】
明治14年、太政官の指令により、滋賀県から越前国敦賀郡と若狭国が分離し、福井県へと変更されました。これにより戸数2万5000戸余り、人口11万8000人あまりが滋賀県から転出します。この時をもって、明治4年から続いた県の変遷は、現状の滋賀県へと確定しました。【明あ156(87)】
滋賀県から福井県が分離するに当たり、福井県令石黒務から滋賀県令籠手田安定に送られた受け取り書です。分離にあたり、戸籍区別帳や地券台帳、社寺明細帳など重要書類が引き継がれました。こうした編入は当時珍しいことではなく、奈良県と大阪府や福井県と石川県の例なども見られます。【明お66合本2(4)】
明治15年、県の指導により大津・長浜間鉄道連絡船の新会社である大湖汽船会社が発足しました。この史料は、実業家として著名な大湖汽船会社の浅見又蔵が長浜港の改修を目的として、水路の開通を請願したものです。長浜駅と長浜港は隣接した利便性によってこの後、共に発展を遂げていきました。【明ぬ121合本2(1)】
栗太郡大路井(おちのい)村(現草津市)を流れる草津川は、堤防の間に堆積した砂により川底が周囲の地面よりも高くなった天井川として知られ、中山道を通行する人々を悩ませていました。この史料はその解決策としてトンネル工事を求めたもので、6年後の明治19年、草津川隧道として完成します。【明な337(1)】
この史料は、隧道の工事目論見書を作成するため、県の土木課が技師派遣を願い出た文書です。この実地検分を経て、明治19年3月20日には藤田組が施工を請け負い、長さ43.6、幅4.5メートルの隧道が完成しました。【明う108(82)】
長年、水害に悩まされていた月ヶ瀬・田・酢・唐国の各村(現長浜市)を救うため、県令籠手田安定は田川カルバートの竣工に乗り出します。そして明治17年6月、ついに田川カルバートは完成しました。現在もその功績に感謝して、村民が建てた祠で籠手田は祀られています。【明ぬ139(73)】
この史料は、明治2年から21年まで園城寺円満院を利用していた時期の庁内図です。建坪は784坪を数え、警察本署と並存して利用されていました。池に面した「正廰」と記されている部屋が、初代県令である松田道之や2代県令籠手田安定の儀式を行った部屋だと思われます。【明う136(16)】
県庁舎移転を推進した第3代知事中井弘(1839~1894)は、薩摩出身の志士として、西郷隆盛や大久保利通、土佐の坂本龍馬たちと幕末維新の政局を駆け抜けた人物でした。維新後は外交官として活躍し、「鹿鳴館」の名を生み出した人物としても知られています。【明い153合本(71)】
明治21年6月25日、新築された庁舎の開庁式が執り行われます。新庁舎は全国的にも珍しいレンガ造りで、17世紀に英国で流行した三角破風(ペディメント)をいだくものでした。現在も県庁本館の中庭に、当時の柱頭が野外展示されており、その面影を示しています。【明い177(16)】