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【展示】神社に祀られた県令―籠手田安定の治水事業―

展示期間 平成29年1月30日(月曜日)~平成29年3月23日(木曜日)

展示ポスター(田川改修)

 現在、長浜市唐国町の水引神社には、第2代滋賀県令を務めた籠手田安定(こてだやすさだ)の肖像が安置されています。籠手田県令は、近隣を流れる田川の水害からこの地を救った恩人の1人だからです。
 古くよりこの地は、田川・高時川・姉川という3河川の合流地点で、大雨の度に大きな氾濫に見舞われました。幕末には田川を分水し、高時川の下を伏越樋(ふせこしひ)で通す工事がなされますが、木製のため腐朽が激しく、その後も水害は起こり続けました。そのため月ヶ瀬ら4か村は、県に対策をとるよう何度も歎願におよびます。何年にもわたる調査検討の末、籠手田県令は木製の伏越樋の代わりに、煉瓦製カルバート(暗渠)の建設を試みました。しかし多額にのぼる工費や税支出の公平性の観点から、県会では何度も否決される事態となるのです。
 今回の展示では、そのような県会を舞台とする激しい応酬の末に、建設に至った田川カルバートの歴史を御紹介します。この事業の是非をめぐっては、「公共ノ利益」とは何かが繰り返し問われました。「公共事業は誰のためのものなのか」。この古くて新しい課題を考えるきっかけになれば幸いです。

複数の治水構想

「浅井郡水害所一覧絵図」 明治8年(1875)4月5日

浅井郡水害所一覧絵図

月ヶ瀬・田・酢・唐国の水害4か村(現長浜市)は、古来より田川・高時川・姉川という3河川の合流地点で、大雨の度に大きな氾濫に見舞われました。幕末には田川を分水し、高時川の下を伏越樋(ふせこしひ)で通す工事がなされますが、木製のため腐朽が激しく、その後も水害は起こり続けました。そのため4か村は、高時川の曲流部分を直流に付け替え、田川の分水が流れる新川の伏越樋を石造にして本流にするという治水工事を県に要望しました。【明ぬ100(2)】

「三河川落合場所変更の図」 明治6年(1873)12月15日

三河川落合場所変更の図

その一方、3河川合流箇所の下流に位置する新居・野寺・八木浜・大浜・川道・南浜の6か村(現長浜市)は、別の治水工事を構想していたようです。本図面の赤線で示されているように、合流箇所を3町ほど下流にずらすという工事を県に願い出ています。これら6か村は、水害4か村とは逆に、日頃から旱魃に悩まされ、晴天が続いても枯れることがない田川の用水に期待したのです。彼らは田川の流水を変更する4か村の治水工事には、強く反対しました。【明ぬ100(1)】

「新川修繕の図」 明治8年(1875)12月5日

新川修繕の図

新川の下流に位置する落合・錦織両村(現長浜市)にとっても、同川の治水工事は切実な課題でした。伏越樋の破損は、両村に水害の危機をもたらすため、その修繕を強く水害4か村に求めたのです。4か村は幕末の新川普請の際に、その修繕の義務を負う約条書を交わしていました。彼らは落合・錦織両村に約束違反を追及され、万一新川を埋め立てることになれば、「全ク魚類同様の在様」になってしまうと、県にその官費負担を訴えました。【明ぬ116(40)】

林蕃著『三河川重要摘集』 明治10年(1877)11月

林蕃著『三河川重要摘集』

複雑な利害関係が絡む3河川の治水工事は、県としても容易に判断を下すことができませんでした。それぞれの利害得失を調査するとして、いずれの治水構想も留保されることになります。本書はその判断の参考資料として、県嘱託の林蕃が著した3河川の調査報告書です。明治10年10月に発生した水害の様子や、河川の流水状況が図入りで解説されています。【行政資料394】

「水害地必困の義に付御願書」 明治12年(1879)3月20日

度重なる請願にも関わらず、一向に起工が進まない状況を見かねた水害4か村は、1万円の上納金を申し出ました。工事が着手されれば、各村の水害難地約180町から、1反(0.1町)につき5円56銭を支払うという計算です。5月にはさらに5千円を増額し、計1万5千円の上納金を確約しました。その後、この已むに已まれず申し出た上納金の約束に4か村は苦しめられ、村民の家財や寺院の建物などを売り払って、何とか皆納したようです。【明ぬ134(30)】

「迅速施行を求める意見書」 明治12年(1879)5月28日

水害4か村からの上納金の申し出を受けて、租税課土木部の岡田直之・市川定義は、この切迫した民情を酌量して「迅速施行スルニ他ナシ」という意見書を七里定嘉課長に提出しています。これに対して七里は、当水害地は容易ではない難所のため、「軽忽ニ着手シ難シ」として、土木局御雇工師のデレーケに調査を依頼することにしました。この調査結果をもとに、伏越樋を煉瓦製にして、新川を本流にする田川カルバート構想が進められることになります。【明ぬ136(28)】

県会での否決

『滋賀県会日誌』第31号 明治15年(1882)5月17日

『滋賀県会日誌』第31号

数年にわたる調査検討の末、ようやく明治15年度地方税予算に、東浅井郡水害除却工費33,841円75銭2厘が計上されることになります。しかし通常県会では、同年における多額の地方税支出を懸念する意見や、恩恵を受ける地域が限られるなどの反対意見が数多く出されました。かたやこの大工事の地方税負担を止めれば、到底村の協議費では賄えないという意見も出されましたが、結局出席議員39名の内20名の過半数が反対し、否決されてしまいます。(議会事務局蔵)

「水害除害工事の儀に付嘆願書」 明治15年(1882)6月2日

治水工事が否決された通常県会は、水害4か村の総代として、月ヶ瀬村の前田荘助と酢村の国友長左衛門も傍聴していました。議場の様子を「実ニ切歯シテ」見守っていた彼らは、改めて籠手田県令に切迫した状況を訴え、速やかな起工を懇願しました。これを受けて籠手田は、6月7日、県会に再議を命じますが、議員らは「直チニ県令ニ返上セン」と反発して再び否決されます。さらに19日には、2度目の再議を指示するも、結果は変わりませんでした。【明ぬ135(41)】

「治水費県会に於て否決の義に付再伺」 明治15年(1882)8月8日

治水工事の県会否決を受けて、明治15年6月28日、県大書記官河田景福は内務省に地方税の支出許可を求める伺書を提出しました。府県会規則第5条において、県令が県会の議決を認可すべきでないと判断した際、内務省の指揮を請うことと定められていたからです。しかし内務省からの電報は、「キキトドケガタシ」との返答でした。本文書は、再度県令籠手田安定自ら内務省に提出した伺書です。地方税支出は「当然ノ筋ト確信候」と訴えています。【明く47合本2(7)】

「内務省にて応接の摘要」 明治15年(1882)9月

8月22日には、大書記官河田景福が内務省に直接事情を聞き質すため、東京に出立しています。25日より始まった内務省での交渉では、治水費の負担は、地方税か村の協議費かの判断が非常に難しいとの説明を受けました。そのため、たとえ県令が地方税に属すべきだと主張しても、県会の判断に従わざるをえないとのことでした。しかし河田は、次年度の県会での再提出までは否定していないという言質をとったことで、ひとまず帰県を決めます。【明く47合本2(17)】

田川カルバートの竣工

『滋賀県会日誌』第13号 明治16年(1883)4月16日

『滋賀県会日誌』第13号

内務省の意向を踏まえ、明治16年度地方税予算には、田川筋変更費の名目で、前年と同額の33,841円75銭2厘が計上されることになりました。しかし前年の精神を引き継いで削除すべきという意見が多数を占め、再び否決されてしまいます。その後籠手田県令は、このまま再び県会が否決し続けるのであれば、「涙ヲ揮テ馬謖ヲ斬ルノ想」で断行せざるを得ないと、自ら熱弁をふるって再議をうながしますが、結局工費は約3分の1に減額されてしまいました。(議会事務局蔵)

「田川伏樋改築県会否決に付決行の伺」 明治16年(1883)5月8日

明治16年度の通常県会でも、田川筋変更費は、到底起工できないほど減額された工費でしか可決できませんでした。籠手田県令は再び内務省に地方税の支出許可を求める伺書を提出します。籠手田は、治水工事に至る経緯を詳細に説明した上で、県会での反対意見を1つ1つ反駁し、本工費が「地方税支弁ニ属スルハ当然ナリ」と起工の必要性を訴えました。「実ニ不当」、「謬見ノ甚タシキ」、「不公平」という言葉が多用され、強い苛立ちが見て取れます。【明く47合本2(1)】

「地方税の支出許可を伝える電信」 明治16年(1883)5月27日

地方税の支出許可を伝える電信

河田大書記官も再度上京し、5月15日より内務省と交渉を開始します。工費の徴収方法に関する議論がなされたようで、交渉の合間に、河田は東京から電信や書簡を通じて県に確認をとっています。県からは、既に県では治水堤防費以外の予算を認可しているため、地価割・戸数割で別途賦課する予定だとの返答がありました。5月26日にようやく許可指令が下り、翌日河田は「チスイヒノウカガイキキトドケノシレイアリ」と県に電信を送りました。【明く47合本2(12)】

『滋賀県会歴史3編1』 (明治期)

滋賀県会歴史3編1

内務省の許可を得て、籠手田県令は田川筋変更費を原案通り執行します。新川の伏越樋を「アーチカルヘルト」(カルバート)に替え、川幅を拡張して田川の本流とする大工事です。明治16年11月1日に起工し、翌17年6月18日に竣工しました。水害4か村の人びとは、この改修に尽力した籠手田県令の功績を讃え、カルバートの近隣に祠を建立しました。後には水引神社と合祀されましたが、現在も形を変えて地域の人びとに祀られています。【行政資料38】

継続する水害の危機

「田川伏樋図算の図」 明治26年(1893)10月8日

田川伏樋図算の図

水害4か村と県庁の長年にわたる努力の末に、ようやく竣工した田川カルバートですが、その9年後には、早くも破損箇所が発見されます。構造上の欠陥や用材の選択ミスが主な原因だったようで、明治26年2月8日、工学士の高橋元吉郎は「最急務」の修築が必要だと報告しています。本図はその修築工事に関わる審査書の付図で、明治18年に起こった水害の際の水嵩まで想定されています。工事は26年12月に起工し、翌年3月に竣工しました。 【明ぬ139(52)】

「明治28年水害被害図」 明治28年(1895)8月

明治28年水害被害図

修築工事から間もない明治28年7月、湖北地方では「想定外」の大水害が起こり、東浅井郡虎姫村(旧水害4か村など)の家屋は、ほとんど水中に没す被害を受けました。住民たちは、天井や屋上に難を避け、長浜からの船数十隻で救助されたといいます。カルバート内部にも大破損が生じ、根本的な改造の必要性を痛感した県は、「インヴァルト」(逆迫持)工事に着手します。29年12月~31年3月の工事を終え、ようやくカルバートは安定期を迎えるのです。【明は5(75)】

関連写真

現在の田川カルバート

現在の田川カルバート
(職員撮影)

水引神社

水引神社
(職員撮影)

田川治水功労者の碑

田川治水功労者の碑
(職員撮影)

第2代県令籠手田安定

第2代県令籠手田安定
(滋賀県蔵)
お問い合わせ
滋賀県総合企画部県民活動生活課県民情報室
電話番号:077-528-3126(県政史料室)
FAX番号:077-528-4813
メールアドレス:kenmin-j@pref.shiga.lg.jp
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