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【展示】近代湖国の観光ビジョン―東洋の瑞西となす―

展示期間 平成26年5月26日~7月25日

観光ポスター

外国人観光客の誘致と聞くと、最近の観光振興策のように思われるかもしれませんが、滋賀県の外国人観光客誘致の取り組みは決して最近のことではなく、100年も前からなされていました。
今回の展示では、大正から明治初期にかけての滋賀県による外国人観光客誘致活動に注目し、「東洋の瑞西(スイス)」と銘打って世界に売り込もうした滋賀の風景やその活用方法について、また外国人を迎えるにあたって当時の滋賀県の旅館が抱えていた問題やその問題を解決するためにつくられた琵琶湖ホテルの建設事業について歴史的文書をもとに紹介しました。
史料からは大正・昭和の観光事業における特徴だけでなく、滋賀の美しい風景をどのように活用していくのか、宿泊型観光客をいかに増やしていくのかといった現代の観光振興に通じる問題がうかがえます。現代の観光事業を進めるうえでヒントとなれば幸いです。
コラム(1) 外国人観光客を誘致せよ Part1 世界の観光地として注目された滋賀の風景
コラム(2) 外国人観光客を誘致せよ Part2 滋賀県内の旅館事情と琵琶湖ホテル

近代湖国の風景

瀬田中島の写真昭和3年(1928年)頃

瀬田中島写真

大正初期、琵琶湖を中心に美しい風景が随所で味わえる滋賀県を「東洋の瑞西(スイス)」と称して世界に発信し、外国人観光客を誘致しようという取り組みが始動します。写真は昭和初期の瀬田中島を南東より眺めたものです。右手に唐橋、左手に中島が見えます。『湖国聚英』の解説には「今も八景の一として観光の客を引きつけてゐる」とあって瀬田中島の風景が観光客を誘っていたことがわかります。(『湖国聚英』滋賀県所蔵)

安土山の写真昭和3年(1928年)頃

安土山

安土山を東南から撮影した写真。手前に見えるラクダのこぶのような山が安土山です。後背の山なみは、長命寺や沖島です。山が琵琶湖に面しており、埋め立てられる前の往時の姿がうかがえます。この写真が収められている『湖国聚英』の英文付紹介文には、織田信長の築いた七重の天守閣がそびえていたとあり、広く外国人にも安土城の存在をアピールしようとしていたことがわかります。(『湖国聚英』滋賀県所蔵)

大正3年の風光調査

「風光調査に関する件」大正3年(1914年)8月5日

風光調査ニ関スル件

大正元年(1912)、「公園の父」と呼ばれた本多静六は、大津で開催された講演会で、スイスを例にあげ「美しい風景を有する滋賀は世界の観光地として通用する」と主張しました。ここに、滋賀の風景を世界に売り込んでいく取り組みがスタートします。大正3年、県は「風光調査」と題し、観光地となりそうなスポットの調査を本多に委嘱します。右の史料は調査先を記したものです。延暦寺や彦根城といった史跡だけでなく、養魚場やボート競争場などの娯楽施設もみえます。風景だけではない、あらゆる観光資源の掘り起こしがなされたことがわかります。【大て12(3)】

『滋賀県風光調査報告』大正4年(1915年)3月

風光調査報告書

本多静六によって行われた風光調査の結果は、翌年、報告書にまとめられます。県内の史跡・名勝を世界の人々が訪れる観光地にしていくにあたり改善すべき点があげられています。例えば冒頭にあげた瀬田中島について、本多は、景色の他に見るべき施設がなく、むしろ水量実験所や旅館、電柱が景観を損ねていると辛辣な評価を下しています。そのうえで、それらの施設を撤去し、新たに公園施設をつくるようにと提言しています。世界に通用するとされた滋賀の風景ですが、より美しくみせる工夫が必要とされていたようです。【大て11(3-2)】

景観保存の取り組み

「矢橋浦保勝会 服部浄信歎願書」大正9年(1920年)7月29日

矢橋浦保勝会

美しい景観をよく残し、世界の観光地として注目された滋賀県ですが、近代化によって失われた風景もあったようです。「近江八景」のひとつ矢橋浦は、江戸時代、歌川広重の「矢橋の帰帆」で知られる美しい風景を備えた港町でした。ところが、鉄道の普及と汽船の運航といった近代化のあおりをうけ、町を往来する人の数は減少。町は衰退の一途をたどります。この歎願書によれば、矢橋は「諸国よりの来訪者をして唾してその不潔と俗化をさけばしむ」というありさまだったようで、著者の服部は汽車や汽船の煙や鉄橋が比叡の晴嵐や琵琶湖にうつる夕日を奪ったと述べています。とはいえ、鉄道や汽船の普及の前に服部の歎きは通用しませんでした。【大せ35(8)】

「保勝会保存会等の指導に関する件」大正10年(1921年)5月23日

文化財保護

滋賀の風景が観光地として注目されたことで、景観の保存にも熱が入るようになり、県内各地で史跡・名勝の保存を目的とする保勝会の設立が増加しました。風光調査を委嘱された本多静六も、観光地となる史跡・名勝の保存は、その活動実績がある保勝会に一任するべきだと『滋賀県風光調査報告』で述べています。ところが、史跡・名勝の保存といっても、観光地として活用し「地域繁栄ノ具ニ供スルヲ目的」とする場合が多く、「現状ノ維持ヲ目的トスル保存法ノ精神」を忘れ、現存しない建築物を勝手に復元するといった行為が横行してしまいます。観光資源としてその存在価値が見直された史跡・名勝ですが、地域経済の活性化を重視するあまり、史跡保存のもつ本来の目的を見失ってしまうことがあったようです。【大せ34(8)】

民間による観光振興

「琵琶湖遊覧設備に対する私見」 大正13年(1924年)6月10日

柴林宗太郎
柴林私見

滋賀の観光振興については県民からも意見が寄せられました。近江織物会社の社長で「縫い目なし蚊帳」というヒット商品を開発したことで知られる柴林宗太郎は、石山地域の観光振興策を県に提案しています。柴林は石山地域の観光の現状について、汽船と鉄道の連絡を欠くため旅客は「不愉快ナル時間ヲ空費」していることや旅人の「旅足ヲ止ムルノ設備全然欠乏セル」状態であると分析しています。そのうえで、鉄道と汽船の連絡をスムーズにし、運動場などの施設を設置するようにと提案しています。しかし彼の提案には、本多のような景観を美しくみせようという指摘はありません。実業家である柴林にしてみれば、旅行消費が気になっていたということでしょうか。【大お1】(柴林宗太郎の肖像写真は『滋賀県がいどぶっく2』より引用)

「石山寺観光パンフレット」昭和初期

石山観光パンフレット

石山寺を中心にその周辺の観光地を紹介したパンフレットです。製作年は不明ですが、石山寺の右に東洋レーヨンが描かれており、また琵琶湖ホテルが描かれていないことから、大正15年(1926年)~昭和9年(1934年)の石山地域を描いていることがわかります。鳥瞰図という形式をとることで、実測図ではおさめることのできない空間の広がりを描いています。左端に大阪駅と奈良駅を描いていますが、このあたりに京阪神地域からの集客を狙う意図がうかがえるのではないでしょうか。【昭せ52(28)】

滋賀県の旅館事情

柳屋の写真大正元年(1912年)頃

柳屋写真

風光調査を担当した本多静六は、外国人を滋賀県に誘致するためには宿泊施設を整備すべきだと『滋賀県風光調査報告』で述べていますが、県内に良い旅館がなかったわけではありません。石山にあった柳屋は、鯉・鮒・鰻などの湖魚料理が美味で有名な料理屋兼旅館で、その名は京阪神地方に広く知られていました。石山寺詣でにやってきた観光客は、柳屋が提供する自慢の湖魚料理を楽しんだことでしょう。(『滋賀県がいどぶっく2』滋賀県所蔵)

紅葉館の写真大正元年(1912年)頃

紅葉館写真

石山だけではなく大津にもよく知られた旅館がありました。大津市にあった紅葉館は、湖南の遊覧客を満足させるために鎌田七兵衛が開いた料理屋兼旅館で、主人が楓をこよなく愛したことから「紅葉館」と名づけられました。三階は宴会用広間となっており、部屋から琵琶湖の景色を楽しむことができました。昭和初期には日本人の食事利用客が年平均で2万を超えており、旅館利用者は、大津・石山地域では突出していました(ちなみに柳屋は1万人弱です)。景色を楽しみながら食事を楽しむことができる旅館としてとても人気のある旅館だったようです。(『滋賀県がいどぶっく2』滋賀県所蔵)

琵琶湖ホテルの建設

「外客誘致に就て」 昭和4年(1929年)4月18日

外客誘致に就て

昭和3年(1928年)、国の経済審議会で外国人観光客の誘致が国策とされます。理由は第一次大戦後の慢性的な経済不況を打開するためでした。西洋では大戦後の経済振興の一環として外国人観光客誘致策がとられており、成功をおさめていたので、日本でもそれにならおうとしたのです。例えば、当時の社団法人ジャパン・ツーリスト・ビューローの調べによれば、スイスは年間200万人もの外国人観光客が訪れていたとされています。一方、当時の日本の外国人観光客は同法人の調べによると2万9千人。外国人誘致の取り組みについて日本は出遅れてしまっていると同法人は認識していたようです。国をあげての外国人観光客誘致が、ここから本格的にスタートしていきます。 【昭せ42(2)】

「琵琶湖ホテル増資ニ関スル件」 昭和11年(1936年)

琵琶湖ホテル増資の件

滋賀県では外国人観光客誘致の国策に応えるとして、昭和6年(1931年)に琵琶湖ホテルの建設事業をスタートさせます。大蔵省より30万円を借り入れ、岡田信一郎の設計のもと、昭和9年(1934)年1月に起工、10月に竣工します。外観は風景との調和を考え、和風の造りとなっていますが、内装は洋式で、全ての客室に洗面所・洋式風呂・洋式便所・暖房器具が備えられており、外国人の宿泊を意識したホテルでした。大正4年(1915年)本多静六が『滋賀県風光調査報告』で、西洋人の習慣にあったホテルの必要性を説いていますが、その指摘から19年経ってようやく本多が望むホテルができたことになります。【昭お9(2-4)】

「琵琶湖ホテル外観図(イラスト)」

琵琶湖ホテル1
琵琶湖ホテル2

いずれも【昭て12】

「琵琶湖ホテル設計図(客室部分拡大図)」

琵琶湖ホテル3
琵琶湖ホテル4

バス・洗面所・洋式便所の設置がわかる。 【昭て9】

「大津地方日本旅館の設備に関する件回報・照会」 昭和7年(1932年)4月

大津・石山旅館

琵琶湖ホテルの建設事業を進めていく中で、滋賀県は大津・石山にある旅館の外国人利用者数の調査を行っています。この調査では紅葉館(大津)・柳屋・三日月楼(以上、石山)といった当時「一流」と見られていた旅館の、昭和4~6年における日本人・外国人双方の宿泊者数および宴会・食事利用者数の平均が記されています(詳細は下表のとおり)。これら3つの旅館の平均利用者数の合計は、日本人宿泊者が7,048人、日本人宴会・食事利用者が39,310人、外国人宿泊者が38.8人、外国人宿泊者数が26.3人でした。この結果を受け、県は日本人による旅館利用については満足していたようですが、外国人による利用については「頗ル僅少」と評価しており、その理由を「当地方ニ外人向ノ設備全然無之ニ原因スルモノト存候、例ヘハ寝台、洋式風呂、洋式便所等ヲ設備セル旅館無キ」ためとしています。琵琶湖ホテルは、こういった大津・石山の旅館事情を克服するべく建設されたホテルだったのです。【昭て9(5-5)】

(表)
昭和4~6年大津・石山の旅館利用者数(年平均)
旅館名 日本人客宿泊利用者数 日本人客食事利用者数 外国人客宿泊利用者数 外国人客食事利用者数
紅葉館 2,924 22,656 34.6 26.3
柳屋 1,699 9,263 1.6 0
三日月楼 2,425 7,391 2.6 0
合計 7,048 39,310 38.8 26.3

「大津市料理組合・旅館組合陳情書」昭和8年(1933年)11月18日

料理旅館組合

外国人向けのホテルとして建設が決まった琵琶湖ホテルですが、その経営方針については外国人観光客よりも日本人観光客に重点を置くという噂がささやかれていたようです。 この噂を耳にした大津市料理組合と旅館組合は県に陳情書を提出します。地元の旅館が対象とする日本人観光客を奪うことはせずに、本来の目的である外国人向けの経営に専念し「共存共栄ノ実」をあげようと訴えています。既存の旅館にとって、琵琶湖ホテルは、これまで不十分だった外国人のおもてなしを担ってくれると期待されていた一方で、同業者として脅威とみられていたようです。一丸となって外国人観光客誘致に取り組むことの難しさがみてとれます。【昭て10合1(2-3)】

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