大正7年(1918年)8月に全国で発生した米騒動は、社会のなかの貧困を明るみにし、政府が本格的に社会事業(社会政策)を始めるきっかけとなりました。滋賀県ではその多くが「未発」に終わったものの、県内各所で不穏な噂が流れ、大きな緊張感を与えました。大正10年2月には、県内務部に社会課が設置され、様々な社会事業が推進されるようになります。今回はそのなかでも、現在の民生委員の前身である「保導委員」の設立過程を紹介してみたいと思います。
滋賀県において社会事業が本格化するのは、大正8年3月1日に出された内務大臣床次竹二郎の訓令がきっかけでした。床次は第一次大戦後の国際的なナショナリズムの高まりを説き、わが国でも「優秀ナル国民性」を育むために、国家観念の養成や自治観念の陶冶、階級調和の促進などから成る5大要綱を示しました。
滋賀県では5月10日、郡市長に訓令の趣旨を徹底するよう指示が出され、さらに6月16~18日には県内各所で、内務省嘱託加藤咄堂を招いた講演会が開催されています【大そ4(1)】。加藤は「戦後に於ける民力涵養」という演題で講演し、国民の「ソリダリチー」(連帯責任)を強調して「自覚ある協力」を求めました。各会場では、郡市町村で訓令に即した事業計画を立てる決議が採択され、その後それぞれの実行要目が作成されています。
大正9年5月21・22日には、二宮尊徳の報徳主義を指導理念とする中央報徳会により全国町村長会が開催されます【大こ37(1)】。滋賀県からは5名の町村長が出席し、町村自治の普及徹底のために、県単位の町村長会を組織することが決議されました。9月2日には、県内の市町村長の賛同を得て、「滋賀県自治協会」の名称が決まります。同月12日、同会の発会式が県公会堂で開催されました。会を構成する通常会員は、市町村自治協会の会員とされ、市町村ごとに自治協会の設立が促されました。
この県自治協会が重視した取り組みの1つが、社会事業でした。12日の発会式閉会後に、早速県知事掘田義次郎より「刻下町村ノ経営スベキ緊急ナル社会事業如何」という諮問がなされています。この諮問事項は、当初は冠婚葬祭費などの節約に関する内容でしたが、文案作成過程で内務部地方課長井上政信より「今少し大なる問題なきや」と批判がなされ、発会式前日に修正されたものでした。この諮問はその重要性から答申未了となり、翌年に持ち越されます。
その後井上は、9月から12月にかけて、地方課県属の石川金蔵を社会政策講習会(協調会主催)に参加させ、社会事業に関する委員の検討をさせます(『滋賀県方面委員制度20年』)。同委員制度は、3月15日に内務省地方局より「頗ル有益」であるとして、各地の関連資料が県に送られていました【大そ3(9)】。石川は社会事業嘱託森賢隆とともに、済世顧問(岡山)や方面委員(大阪)などを手本に立案し、それを「保導委員」と命名します。
さらに石川は、先の知事諮問に対する答申書も作成しました。そこでは、公営・私営事業の連携や、公設市場の設置などとともに、社会事業に関する委員(保導委員)の設置があげられています。翌10年1月27日、市町村長で構成される特別委員会での協議を踏まえ、知事に提出されました。
大正10年2月4日、県内務部に新たに社会課が設置され、19日には「滋賀県保導委員設置規程」が公布されます【大あ49(9)】。同委員の主な活動は、生活困窮者の調査を行い、社会事業団体など協力して、その改善向上に努めることとされました。市町村自治協会に3名以上を選任するという規定で、任期は3年の名誉職でした。教育関係者や宗教関係者、医師・産婆などが想定されました。
3月11日には、保導委員設置の宣伝を目的とした社会事業講演会が開催されています。これは市町村長や社会事業関係の町村吏員を対象としたもので、内務省社会事業調査委員の小河滋次郎が講師に招かれました。小河は大阪府の方面委員制度の導入に尽力した人物でした。さらに3月28日には、県内務部が各郡長に4月末日までに保導委員選任を終えるよう促し、4月14~19日に県内各郡で、内務省嘱託生江孝之を講師に迎えた民力涵養講演会を開催しています。
しかし結局、年内には保導委員の選任は終わらず、翌11年2月になって、全市町村で完了したようです。5月11日の県自治協会委員総会では、同委員の事業費を市町村予算に計上する提案が県からなされ、全会一致で可決されました【大こ37(3)】。この決議を受けて、6月8日に県内務部はその最低額を提示しています【明ふ18合本3(1)】。10月14日には、県内務部より、同委員の事業を狭義の救済事業にとどめず、広く一般生活に関するものを講ずるよう指示が出されました【大ふ62合本2(4)】。
その後保導委員は、昭和3年7月に方面委員と改称し、市町村の運営に移されます。昭和7年1月の救護法施行後は、市町村の救護事務委員と位置づけられ、生活扶助や医療、助産、生業扶助などを担いました。敗戦後は民生委員と名称を変え、今日に至るまで地域における福祉の担い手として活動を続けています。