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【コラム2】坂田・東浅井両郡合併問題

明治25年(1892年)2月8日、滋賀県会は内務大臣の命により解散させられるという前代未聞の事件が起こります。そのきっかけとなったのが、県庁移転問題と瀬田川鉄橋問題、そして今回ご紹介する坂田・東浅井両郡の合併問題でした。

合併派と分離派の対立

事件の発端は、明治23年(1890年)7月1日、内務大臣から岩崎小二郎知事に宛てた郡制施行にともなう通知でした【明こ21合本3(11)】。それまで郡は、官選の郡長と郡役所が置かれていたに過ぎず、滋賀県では栗太・野洲、愛知・神崎、坂田・東浅井、伊香・西浅井の各郡が、2郡で1つの行政区とされていました。しかし同法施行により、新たに郡会が置かれ、府県と町村の間に位置する独自の自治体と定められたのです。今回の通知では、それまで数郡に1つ置かれていた郡役所を毎郡に1つ設置することや、郡単位の事業が可能な資力に応じた郡の合併・分割が指示されていました。そこで県は9月8日、各郡長に郡を合併した場合の得失や、新たな郡名の選定を地元の有力者に諮るよう求めたのです【同前(13)】。

早速、坂田・東浅井郡では、郡長木村広凱が9月10日に両郡の町村長・県会議員を集めて説明を行い、22日に改めて各々より意見を聞きました【明ふ59(2)】。しかし分離派と合併派に見解が分かれたため、今度は答申書を提出させました。その結果、東浅井郡全村と坂田郡のうち4か町村が合併を希望したため、木村郡長は多数の意見を取り、10月岩崎知事に「合併セシメサルヲ得ス」と回答しています。新たな郡名は、坂田・東浅井両郡から各1字をとって「坂井郡」が適当と答えました。ただし木村郡長の答申は、分離派があくまで独立を希望した場合、もし強行に合併すれば、将来の施政に影響を及ぼすかもしれないと述べるなど、分離の余地を残すものでした。

9月28日には、岩崎知事より木村郡長に合併を認める旨を記した内書が送られます【明こ70(3)】。坂田・東浅井両郡は、歴史や地勢、人情から見て分離は必要なく、例え多少の異議があっても、最早顧みる必要はないとまで言い切っています。

一方両郡の合併問題は、その後も分離派・合併派とも互いに譲らず、県庁に陳情を重ねます。両派の激しい対立に危機感を抱いた岩崎知事は態度を変え、同年11月、このまま合併しても「到底協和結合ノ望ミナキ」として、坂田・東浅井両郡の分離を内務大臣に上申したのです【明こ166合本3(1)】。結局、12月に政府より帝国議会に提出された郡の合併に関する法案では、坂田・東浅井両郡は対象とならず、県内においては、単独では資力が乏しいとされた伊香・西浅井両郡のみでした。

帝国議会に出席していた合併派の貴族院議員下郷伝平(坂田郡長浜町)は、在京中の岩崎知事に詰め寄り、事情を確認すると、直ちに郷土にその旨を報告しました。その知らせを受けて激昂した合併派は、郡長宅に押しかけ「知事・郡長ハ郡民ヲ欺キ、冷淡ニモ出シヌケ遭遇セシメタリ」と苦情を訴えます。しかし木村郡長も寝耳に水の話で困り果てるばかりでした。自派の不利な状況に焦った合併派は、12月20日に衆議院議長、翌年1月7日に内務大臣に陳情書を提出します【明こ70(7)、同前(8)】。さらに今度は分離派も同年1月10日、衆・貴両院議長に請願書を出すなど、両派の争いは激しさを増していきました【明こ72(37)】。

その後4月には岩崎知事が転任し、新たに沖守固が知事に就任します。しかし翌5月には大津事件の責任をとって辞任。事件収拾にあたった渡辺千秋知事も6月には転任し、大越亨知事が誕生します。この就任間もない知事のもとで、両郡合併問題は新たな局面を迎えることになるのです。

坂田郡の分割建議

明治24年(1891年)12月4日の通常県会では、上記の終わりの見えない争いを解消するため、愛知郡選出の横田耕議員(西小椋村)より内務大臣宛ての建議案が出されました。横田によれば、合併・分離両派とも主張に偏りがあるため、坂田郡を流れる天野川を境に、同郡南部を犬上郡、北部を東浅井郡に分割するのが「公平」だというのです。これに対し、坂田郡選出の上田喜陸議員(鳥居本村)は「之レハ阪田・東浅井二郡ノ事」だとして、この建議案に反対しました。しかし結局は、横田案が過半数を得て可決されることになります【明き16(32)】。11日には大越知事より議会の建議を受けた場合は大臣に上申する旨の発言がなされ、翌12日には知事の斡旋を求める決議も可決されました。

これに憤慨したのが坂田郡の住民たちでした。合併・分離派双方とも、天野川沿岸は水利や境界に関する争いが絶えない地域で、もし南北に分割すれば「人心激昂如何ナル変動ヲ起スモ測リ知ル可カラス」と知事に再考をうながしました【明こ70(17)】。そこで大越知事は、県属に命じて12月14・18日に実地調査をさせたところ、水利の関係上、とても天野川を境に分割できないことを悟ります【同前(35)】。

一方県会議長らは、内務大臣に提出された建議に基づき、上京して内務省との折衝を重ねました。しかし知事の協力を得られなかったこともあり、実現の見込みはないと拒絶されます。そこで明治25年1月6日の臨時県会では、東浅井郡選出の村田豊議員(竹生村)より、「此知事ノ食言(嘘)ヲ日誌中エ特筆大書スル」議案が出され、そのまま可決されてしまうのです。大越知事は直ちに県会を中止し、1月9日には硬派と称する「破壊主義」の議員が牛耳っていると、県会の解散を内務大臣に求めました【明き19(15)】。そして2月8日には、同大臣より滋賀県史上唯一の県会解散が命じられるのです。

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