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史料解説(2)「教員たちの建白書」

明治前期の社会は、「建白書の時代」ともいわれ、数多くの建白書が政府や地方官に提出されました。その背景には、明治政府が慶応3年(1867)の王政復古の大号令で、一般の人びとによる建白を認めたことがあります。最も著名なものは、板垣退助らによる民撰議員設立の建白書ですが、当時出された建白書には、実に多種多様な人びとの要望・心情が綴られています。なかでも今回は、教育に関する建白書をいくつか紹介してみたいと思います。

教育方法の改善を求める建白書

最初に紹介するのは、明治10年(1877)1月12日に、神崎郡宮庄村(憲章学校)三等訓導(教員)の赤城広敬から県権令宛てに提出されたものです 【明し164合本1(1)】。赤城は研究熱心な人物だったようで、近隣の学校教員とともに、自宅で「神崎郡有志教育会」を開催していました。この会は書籍の教授方法から号令のかけ方に至るまで、優れた教育実践について互いに討論するという研究会です。参加者は次第に増えて神崎郡全域に及び、会場も八日市村昇達学校へ移動したようです。
このように優れた教育実践を行ってきた赤城には、1つの問題意識がありました。それは現在、学区取締の「督責」(厳しい催促)により、校舎の新築・増築は進んでいるものの、肝心の教育方法がおきざりにされているのではないかという懸念です。赤城によれば、この原因は学区取締や区戸長にあるわけではなく、ましてや教員の能力が乏しいからでもありませんでした。赤城の考えでは、各校を監督する訓導(教員)がいないためで、その仕組みを整えずにいくら「督責」しても、「種ヲ施サズシテ収穫ヲ望ム」ようなものだというのです。現状では、県が学校の実情を調査することはなく、戸長が体裁を整えて報告しているにすぎません。長年にわたり有志教育会を開催してきた赤城からすれば、教育方法を改善していくためには、教育の現場をよく知った博識な訓導の指導監督が不可欠だったのです。
この建白書は、県権令籠手田安定の目にとまったようで、「此建言至当ナリ、他日ノ参考ニ供ス可キコト」と朱書きで記されています。

教育の機会均等を求める建白書

次に紹介するのは、明治10年(1877)9月27日に、神崎郡川並村(川並学校)教員の森平治郎が県権令に提出したものです【明し164合本1(14)】。森は1人の教育者として、「教育授受ノ権」が「均一」ならざる現実に強い憤りを感じていました。明治維新後、遍く学校が設立され、表面的には教育の「全備」が唱えられても、森の目から見れば、「教育ノ実」は失われたままだったようです。貧民の子弟は、衣服や紙・筆を買う資金がなく、たとえ就学の意思があっても、やむなく断念せざるをえない現実がありました。彼らはたとえ就学することができても、家計を助けるために欠席しがちで、わずか1,2年で退学してしまいます。森は、みなが同一の「人種」として生を受けながら、富裕者のみに教育を受ける権利が独占されている現実を、1人の教育者として嘆くのです。
森はその解決策として、県営の給付型奨学金の設立を提言しています。各学区の有産者による拠出金を県庁に集め、貧民数に応じて各学区に配り、貧民の紙や筆、書籍などに充てることを考えたのです。さらに極貧の者には、衣服を提供することも検討されています。
森の議論で特徴的なのは、「会社」(「社会」の意味)への期待です。森は、いまのわが国の「会社」は、名前は「会社」でもその実は「会社」に恥じるものだといいます。裏を返せば、真の「会社」とは互いを助け合うものだという発想があるのです。「society」の訳語として、新しく用いられた「会社」(社会)という言葉が、従来の村や藩を超えて、人びとが支えあう理念として次第に定着しつつあったことがうかがえます。身分・階層を超えた平等な関係を表す言葉として、「人種」「人類」が多用されているのも、注目に値するところです。

女学生の建白書

建白書を書いたのは男性だけではありませんでした。明治14年(1881)1月16日には、滋賀県師範学校(女子師範学科)の学生である井崎隆(タカ)が県令宛てに提出しています【明し164合本3(4)】。井崎は、県の命により東京女子師範学校へ派遣が決まったばかりでした。
井崎は同校への推薦がよほど嬉しかったようで、この建白書では「隆謹テ命ヲ奉シテヨリ欣喜(非常に喜ぶこと)自ラ禁セス」と、率直にその喜びをあらわしています。しかし井崎は、喜んでばかりもいられませんでした。同校では、全国から集められた才女と肩を並べなくてはならず、私がもし試験に合格しなければ、世間の人はみな「滋賀県教育未タ盛ナラス、学事未タ挙ラズ」と口にするだろう。そうなれば、閣下(県令)の明察さを損なうのみならず、父母・師友を辱め、県民の期待に背くことになる。戦慄を抑えきれず、使命の重さを感じ入るばかりであるというのです。「心惑ヒ魂迷」う井崎でしたが、古人の「虎穴ニ入ラスンハ虎子ヲ得ス」という言葉を思い出し、覚悟を決めます。実地に足を運ばずして、あらかじめ結果を決めてはならない。今から努力を怠らなければ、たとえ「虎子」を得られなくても、密かに「虎穴」をうかがうことはできる。そうすれば、閣下(県令)の「高恩」に少しは報いることができるに違いない、とある種の開き直りの心情を見せるのです。
東京進学後の井崎は、日本唱歌や琴、西洋唱歌を学び、明治16年(1883)から秋田県女子師範学校で教鞭をとることになります。井崎は優秀な成績を収め、無事に「虎子」を得ることができたといえるでしょう。
【参考文献】

・佐川馨「学校教育創始期の秋田県における音楽教員の系譜」(『秋田大学教育文化学部研究紀要』65、2010年)

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