今日の日本社会では、日本国憲法第25条において、人間が人間らしく生きる権利(生存権)が保障されています。しかし戦前の大日本国憲法下では、そのような権利は国民に認められていませんでした。明治7年(1874年)に公布された恤救規則では、救貧事業は「人民相互ノ情誼」(相互扶助)で行われるべきとされ、政府は身寄りがなく働けない者に限り、米の給与を認めるという立場をとっていました【明あ98(120)】。
直接的な救貧事業の代わりに政府が力を注いだのは、民間貯蓄の奨励でした。明治7年3月13日、内務卿木戸孝允は、貧民に貯蓄をさせて困窮から守るのは政府の義務だとして、太政大臣に預金制度の伺書を提出しています。同年8月31日には、貯金預り規則が施行され、翌年5月2日より東京・横浜の郵便局で、内務省駅逓寮による預金制度が開始されました。滋賀県では、明治10年7月10日より大津郵便局で、翌11年9月25日より彦根・長浜・敦賀など9か所で業務が始まります【明い96(12)、同99(51)】。その際、県令籠手田安定は、中等以下の人民が貧困に陥るのは「理財ノ法」を知らないからであり、塵も積もれば山となると貯金を奨励しています。
しかしこの預金制度は、すぐには浸透しなかったようで、明治16年11月8日、籠手田県令は、駅逓局が作成した「貯金規則の要領並利息表」を郡村に頒布しています【明い138(55)】。さらに同18年1月24日、農商務省と大蔵省は近年の貯金預所(郵便局内)の増加を踏まえ、郡区長や戸長から人民に貯金を促すよう諭達しました【明あ112(130)】。
転機となったのは、明治18年5月30日、農商務省が勤勉貯蓄の奨励のために、同省書記官を各地に派遣するとの布達でした(『官報』572号)。当時は大蔵卿松方正義のデフレ政策により農村が窮乏化し、緊急の対策が求められていました。滋賀県では旱害や水害も重なり、6月2日に勧業諮問委員、15~17日に勧業委員に対して諮問がなされています(『農商工業衰頽実況取調答申書』)。この答申では、地租の軽減と節倹の必要性が説かれ、早速県令中井弘は、11月4日に貯蓄組合準則を布達しました【明い157(76)】。
この準則は、普通・備荒の2種類の貯蓄組合に関する規則を定めたもので、以後村ぐるみの新たな貯蓄制度が設けられることになります。いずれの組合も、その範囲は原則数か村(連合戸長役場が管轄する区域)とされ、災害や凶作の際のみ払い戻しが認められました。従来滋賀県では、明治10年より私蓄備荒金という独自の貯蓄制度が整備されていましたが、度重なる災害で貯蓄額は底をつき、また最も貯蓄が必要な小作農や商工業者は排除されていました【明お45(35)】。全ての住民を網羅する貯蓄制度として、貯蓄組合は発足したのです。
その結果、明治18年時点で約2万6,935円だった駅逓(郵便)貯金の預入額は、翌19年になると約21万2,991円となり、実に10倍に激増しています(『滋賀県第1部農商課年報』第8回)。明治19年の調査では、神崎・愛知・犬上各郡の全村で貯蓄組合が結成され、その他の郡でも組合のない村はなかったようです。貯蓄組合は全国で設立が相次ぎ、明治19年9月25日には、大蔵大臣松方正義が全国で預金者50万人、預金額1,600万円余りに及んだことを報告しています【明い1(32)】。
その後、県内の預金額は順調に増え続け、明治20年代末には30万円を超えました。しかし貯蓄組合自体は、明治23年の90組合をピークに減少し続けます。緊急時にしか引き下ろせない貯蓄組合は、次第に敬遠されていったのでしょう。明治33年に産業組合法が施行されると、その役割は終わりを迎え、翌34年3月16日、貯蓄組合準則は廃止されます【明あ255合本1(10)】。その後は信用組合へと形を変え、積み立てが継続された地域もあったようです【明た7(5)】。
しかしながら、明治37年から日露戦争が始まると、再び政府より貯蓄組合の結成が呼びかけられます。その結果、県内の郵便預金高は、制度開始以来最高額である140万円に達しました。さらに明治39年1月27日、内務・大蔵・逓信の3大臣の訓令を受けた鈴木定直知事は、このとき設立された戦時国民貯蓄組合を戦役紀念貯蓄組合、もしくは信用組合として継続するよう郡市町村に奨励しています【明い24(1)】。明治41年10月13日には、明治天皇より戊申詔書が発布され、国民は「勤倹産ヲ治メ」るよう求められました。同43年には、甲賀郡伴谷村や蒲生郡鎌掛村がその奨励地方団体として表彰されています【明え268(1)】。
このように戦前の日本社会では、不況や災害、戦争などの生活危機に対して、日々の貯蓄を通じて乗り越えることが奨励されました。政府が新たな対応を迫られるようになるのは、大正7年に全国で巻き起こった米騒動以降のことでした。