現在、近江商人といえば、「売り手よし」「買い手よし」「世間よし」の「三方よし」の経営理念で知られる、その高い倫理性や社会貢献が注目を集めています。しかし明治初期の県当局は、県内有数の富豪でありながら、県外でばかり活躍する近江商人を、あまり望ましいものとは考えていなかったようです。今回は県当局と近江商人が、ときに摩擦を生じながら、ともに県内の商業の発展に尽くしてきた様子を紹介してみたいと思います。
滋賀県の産業化を推し進めるために、維新直後から必要とされたものが、新たな産業を興すための多額の資金でした。明治5年4月22日、権参事桑田安定(後の県令籠手田安定)らは、県下初の銀行「江州バンク」の設立について大蔵省に伺い出ています【明う155(33)】。桑田らは、県内には「富豪之民」が多く、東京・函館・松前などに出店して交易をなす「江州商人」が世に名高いものの、彼らはもっぱら各自の事業に務め、規模も小さく、共同して遠大な事業に着目しないと批判します。彼らは公益事業をなさないのは勿論、住民の福利にも貢献せず、「一個之利益」に奔走するにすぎないというのです。
桑田らは、人間の働きにとって最も重要であるのは「財本」だとして、その「財本」を流通するには、「バンク」より善いものはないと、従来から設立されていた為替会社をもとに100万両を積み立て、県内人民の福利を図りたいと伺い出ました。それに対し大蔵卿井上馨は、5月30日、近日中に会社の一般法が発令されるので、それまでは従来の扱いにとどめるよう指示しています。
さらに明治8年3月19日には、県令松田道之が内務省に「勧業之儀ニ付伺書」を提出しています。この伺書でも、滋賀県は風土や地質に恵まれて富豪も多いが、商家は出稼ぎが多く、自国に向けて事業を興す者が少ないとして、政府の勧業費援助を求めています。以上のように「他国稼ぎ」を生業とする近江商人は、明治初期の県当局にとってはもどかしい存在だったのです。
しかし実際には、近江商人たちは、県内の動向に無関心だったわけではないようです。能登川商人の阿部市郎兵衛は、古くより窮民救助に尽力していた人物で、明治4年の春に朝廷より銀杯3器を下賜されています【明い30(49)】。その後阿部は、さらに1,000両を県庁に寄付したため、大津県権知事朽木綱徳は、権参事桑田安定と相談して、この資金を元手に「管下人民ノ事ノ為ニスルノ策」を立てることに決めました。
明治4年11月、新たに大津県令として赴任した松田道之は、その志に感銘を受け、その事業を引き継ぐことにしました。翌5年4月、さらに事業規模を拡大して、勧業社を発足させます。松田は新たな産業を興すための「勧業」を自分の職任と位置づけつつ、その財源を官に仰ぐとなると、とても耐えられないとして、「智ト財トノ責アル者」に出資を呼びかけました。松田自ら1,500両出資したほか、籠手田200両、元権知事の朽木綱徳500両など、官員が半数近く占めるものの、有力な近江商人たちもその出資者となりました。阿部に加えて、日野商人の正野玄三500両や中井源左衛門700両など、彼らは多額の資金を同社に提供しています。
近江商人の県内商業への貢献は、多額の出資のみにとどまりませんでした。明治13年6月15日、大書記官河田景福は、米や麦、茶、醤油など諸物産の相場や売買状況などを調査させるため、県内各地で商況通信委員を任命しました【明い117(124)】。そのなかには、大津の山中新兵衛、彦根の井関寛治などと並んで、八幡商人西川甚五郎の名を確認することができます。明治14年5月の商況通信で西川は、八幡と越前産の蚊帳が麻糸の高騰で産出が少なくなり、商人は買い控えているが、次第に需要の季節に入るので改善される見込みだと報告しています(『滋賀県勧業課報告』第11号)。この報告書は、県内の商況のみならず、横浜・神戸など輸出入に関わる諸港に置かれた特別通信委員より、全国各地の情報を仕入れていました。このように近江商人は、自身の仕入れた情報を県全体で共有する働きもしていたのです。
近江商人は教育にも力を入れていました。伝統的に近江商人は、信頼のおける近江出身者を雇用し、ゆくゆく別家(暖簾分け)の設立を想定した丁稚奉公人を育成する仕組みをもっていました。しかし明治19年3月には、近代的産業振興のため実業教育の必要性が説かれるようになり、県令中井弘の主導で滋賀県商業学校が設立されます。その運営が軌道に乗り、校舎改築の要望が高まると、神崎郡と蒲生郡(八幡町)で激しい誘致運動が展開されるようになりました。
最終的に県会で八幡町への移転が決まり、明治34年4月、八幡町に隣接した蒲生郡宇津呂村に本館が建てられました。同年6月に滋賀県立商業学校と改称し、明治41年には滋賀県立八幡商業学校となります。多数の優秀な経営者を輩出したことで、「近江商人の士官学校」とも呼ばれました。身近な近江商人系企業の活躍は、「立身出世」を目指す県内の若者の向学心に大きな刺激を与えていきました。