明治政府の米原・敦賀間の鉄道敷設方針に対して、滋賀県とは異なる行動をとった長浜の実業家浅見又蔵を取り上げ、鉄道と汽船の連絡地として繁栄した長浜の歴史を辿ってみましょう。
浅見又蔵は天保10年(1839年)に長浜宮町の薬種商の三男として生まれ、22歳の時に縮緬製造を本業とする浅見家の養子となりました。明治9年(1876年)にアメリカで開催された万国博覧会に浜縮緬を出品し、その後海外輸出を試みています。この輸出が浜縮緬の最初の輸出です。浅見は後述する太湖汽船会社頭取や第二十一国立銀行頭取などを歴任するなど実業家として活躍する一方、火災・天災の被災者救済や日本赤十字社の支援も行っていました。明治31年には長浜町長に当選、その翌々年の明治33年に死去しています。その浅見は、米原・敦賀間の鉄道敷設の動きに対してどのように行動したのでしょうか。
明治12年10月10日付で米原・敦賀間鉄道敷設の工部省達が出されます【明と3合本4(1-2)】。その翌年1月、浅見又蔵は滋賀県へ「新道開墾港口修築願書」を提出します【明と9(107)】。その「願書」には事業の資金に充てるための株式募集の文書が添付されていますので、「願書」と株式募集の文書の両方から彼がどのような構想を抱いていたのかを見てみましょう。
浅見は、長浜・関ヶ原間に私設鉄道を敷設する予定のもと、その間の新道の開設と長浜港の修築を願い出ています。直線の新道を開設することで、長浜・関ヶ原間の約6里の道のりを約4里に短縮し、「順次資本ニ応シ鉄道ヲ敷設」すれば「東海東山及北海陸ノ四道ヲシテ西ニ京阪諸国ノ便ヲ益」することができると述べています。また、水運については、前号でも取り上げた米原港・松原港の汽船が暴風の際には長浜港に停泊することをあげ、長浜港を修築すれば水陸連絡の利便性が向上し「長浜ハ全州ノ一都会トナルコト万々日ヲマタザルベシ」としています。浅見は、東日本・北日本からの旅客や物産を長浜に集約し、水陸の連絡の拠点とすることで、長浜を滋賀県一の都会にすることを目指したのです。
浅見又蔵の「新道開墾港口修築願書」はどうやら認められなかったようです。同じ明治13年5月、浅見は「水路開通願書」【明ぬ121合本2(1)】を提出、「水路掘割及波留場」の築設を願い出ています。私設鉄道敷設を前提とした新道開設を取りやめ、長浜港を水陸の連絡に耐えられるような港にするための事業に資本を集中するということでしょう。こちらの「願書」は許可され、同年11月1日に着手、明治16年4月30日に竣工しています。工事にかかった費用は36,093円12銭5厘で、当初は港を利用する船から入港料を徴収することで償却する予定でした【明ぬ121合本2(2)】。しかし、入港料を払うことのできない船が港を利用できなくなることを危惧した鉄道局が明治17年に36,400円で長浜港を買上げています【明ぬ121合本2(4)】。
一方、米原・敦賀間の鉄道工事ですが、明治13年1月、鉄道局長井上勝が路線の変更を政府に上申、翌月許可がおります。変更内容は、米原から塩津を経由して敦賀へと向かう路線を柳ヶ瀬経由とすることと、起点を米原から長浜へと変更することです。塩津・敦賀間の急勾配などがその理由としてあげられています。長浜・敦賀間の工事は、明治15年3月に柳ヶ瀬トンネルを残してその前後の区間が開業、明治17年4月には全通しています。また、浅見が願い出た長浜・関ヶ原間は明治15年5月に官設鉄道として敷設されることが滋賀県に通達され、翌16年5月に開通、さらに明治17年5月には大垣まで延伸されます。
浅見又蔵や滋賀県だけではなく、井上鉄道局長も琵琶湖の水運を利用することを考えていました。しかし、当時は江州丸会社や三汀社(さんていしゃ)といった汽船会社が熾烈な競争を繰り広げていました。井上はこれらの汽船会社を統合し、船体の改良・社則の改正をさせた上で大津・長浜間の湖上運輸を担わせようとします。明治14年9月、太湖汽船会社が設立され、鉄道との連絡運輸を鉄道局に出願します。三汀社を買収していた浅見又蔵もその出願者の一人でした。10月に鉄道局から許可され、翌15年5月から大津・長浜間の鉄道連絡運輸を開業します。明治17年5月には鉄道との連絡切符が発売され、鉄道連絡船となったことは前号で紹介したとおりです。長浜は浅見の願いどおり水陸連絡の拠点として繁栄します。しかし、明治22年、湖東に鉄道が敷設され東海道線が全通します。その際、関ヶ原へは長浜ではなく米原を経由して向かうように路線が変更されます。これに伴い、大津・長浜間の鉄道連絡船は廃止され、長浜は米原から敦賀へと向かう路線の駅の一つに過ぎなくなってしまいます。汽車と汽船が共存共栄していた時代が幕を閉じるとともに、長浜の繁栄にも陰りが差すのです。