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【コラム】“国宝”誕生の軌跡

はじめに

2017年は、明治時代に初めて「国宝」が制定されて、120年の節目の年に当たります。明治維新により諸制度の改革が行われ、人々の習俗、慣習が急激に変化する中で、廃仏毀釈による仏像破壊や文明開化の風潮による伝統的文化の軽視により、古い文化財は散逸の危機にさらされました。そのような中で、政府は「古器旧物保存方」(明治4年)の布告を出発点として、漸次、文化財保護体制を整えていきます。そして滋賀県でも、その歴史や文化を伝える貴重な国宝が、数多く指定されていきます。
今回は、「国宝」の概念が誕生するまでの軌跡と滋賀県の関わりについて、その時代的背景をたどっていきたいと思います。

廃仏毀釈など明治維新後の状況

今から150年前の大政奉還を経て、江戸幕府からの政権が移った明治政府は、国学者の復古思想による「祭政一致」を政治基盤の理念とし、神道を国教化する政策を推し進めました。明治元年(1868)3月28日に神仏分離令が発布されると、それまで庶民の生活に浸透していた仏教を、排斥していこうとする動きが起こります。神祇や祭祀の興隆を目指し、神仏習合の風習を禁止しようとする廃仏毀釈運動は、そのような中で引き起こされることになりました。それまで仏教の影響下で神仏習合を受け継いできた一部地域の神社などでは、権現や牛頭天王などといった仏教の理念により命名されていた称号の改名や、社僧の還俗、梵鐘などの仏具が取り除かれていきます。
中でもその激しい舞台となったのが、比叡山山麓の日吉大社でした。日吉造りといわれる独特の建築様式が評価され、現在本殿が国宝にも指定されている日吉大社は、延暦寺が伝教大師最澄によって創建された後、同寺の鎮守神や山麓各村の惣氏神として崇められ、長年にわたって神仏習合の大切な象徴となっていました。そしてそのことは、真言宗などの他宗派にも見受けられることであり、決して天台宗だけの特別な形態という訳ではありません。
神仏分離令が布告された数日後の4月1日、日吉大社社司で政府の神祇事務局事務掛となっていた樹下茂国(じゅげしげくに)は、京都吉田神社配下の神官たちによって結成された神威隊とともに坂本を訪れ、日吉大社神殿の鍵を明け渡すよう延暦寺に通告します。しかし、延暦寺側は神仏分離令の布告が天台座主から通達されていないことを理由にこれを拒否します。樹下たちは坂本の農民100人も巻き込み社殿に乱入、貴重な仏像や経典、仏具など膨大な宝物を破壊・焼却してしまいました(『新修 大津市 史第5巻』)。この事件以後、延暦寺や坂本の農民の願いも空しく、日吉大社の管理や山王祭の執行権も延暦寺から離れることとなります。
また、この神仏分離令の影響は湖島の竹生島にも波及します。湖岸から約六キロの地点にある竹生島は、古代より浅井姫命を祭神とする都久夫須麻神社と弁財天を本尊とする宝厳寺とが共存していましたが、明治四年(1871)、大津県庁は弁財天社の都久夫須麻神社への改称を命じました。この難題に対し宝厳寺は寛大の処置を求めますが、大津県の強硬な態度により結局は改称命令は受け入れられ、竹生島の神仏分離は完了します。
明治政府の神仏分離令を契機として、こうした廃仏毀釈の風潮は全国に広まっていきました。伝統的な文化として地域に根付いていた寺院建築や仏像などの仏教美術は破壊・散逸が加速され、また、江戸幕府の瓦解による旧体制の崩壊という社会変革も、社寺の経済力を低下させ貴重な宝物の売却・流失を招く、という一因になりました。

臨時全国宝物取調局と古社寺保存法の誕生

政府もこうした文化財の散逸と急激に進んで行く文明開化の風潮から古来よりの文化や精神が反映されている貴重な文化財を守るべく、明治4年(1871)には、太政官が「古器旧物保存方」を布告し、文化財亡失を防ぐ所有者への啓発を初めて実施します。翌明治5年(1872)には宝物調査の一環である「壬申調査」が近畿圏の古社寺や正倉院で行われました。
そして明治21年(1888)9月、宮内省に「臨時全国宝物取調局」が設置され、滋賀県が全国で最初の調査地に選ばれます。まずは予備調査が行われ、各郡役所が「宝物目録」を取りまとめます【明せ11(3)】。その後、本調査に入りますが、この時調査を主導したのが取調局委員長に就任した旧綾部藩士の文部官僚、九鬼隆一でした。九鬼やその他の随行員が滋賀県を訪れると、内務大臣山縣有朋からの訓令を受けていた県も調査に協力します【明せ11(1)】。そして11月29日から12月6日にかけて園城寺や石山寺など県内各地の宝物を調査分類し、優秀なものには鑑査状を交付しました。結果的に、この調査がその後の文化財保護の下地ともなり、明治30年(1897)の「古社寺保存法」制定へとつながっていきます。
当時は、日清戦争を経て民俗的自覚が高まりを見せた時期でもありました。岡倉天心をはじめとする識者や社寺などの関係者の運動によって古社寺保存の機運が醸成され、明治29年(1896)に内務省に古社寺保存会が設置されます。そして翌年、古社寺の建造物および宝物類の保存を目的とし、古社寺だけではその維持・修理が困難な場合にこれを補助・保存することを定めた「古社寺保存法」が制定されました。これは、出願に基づいて内務大臣が九鬼隆一や岡倉天心からなる古社寺保存会に諮問したうえで、建築物に関しては特別保護建造物、絵画・彫刻や工芸品などには国宝の資格を認定しました。認定を受けた物件は処分や差し押さえが禁じられ、国宝については博物館への出陳が義務付けられます。本県は第1回目の認定においては、国宝14件、特別保護建造物では西明寺本堂の1件が認定されています。これは、実質上の文化財の指定制度の導入ともいえます。
このように今年でちょうど120年となる「古社寺保存法」の制定によって、「歴史ノ証徴又ハ美術ノ模範トナルヘキモノ」とする国宝の概念は誕生したといえるでしょう。

受け継がれる文化財保護の精神

その後、昭和4年(1929)には建造物や宝物その他の重要な文化財をすべて国宝として指定するよう定めた「国宝保存法」が公布され、「古社寺保存法」により特別保護建造物または国宝として定められていた物件は、「国宝保存法」による国宝指定をうけたものとみなされます。これによって、明治維新後に取り壊しを免れた彦根城などの城郭建築【明あ112(49)】、旧大名家の所有宝物類など社寺以外の文化財も指定されることになりました。
第二次世界大戦後「文化財保護法」は制定されましたが、時代とともに変わり行く文化や風俗の中で貴重な文化財を守り通していくためには、今後もさらなる文化財保護の環境整備など不断の努力が求められます。

お問い合わせ

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