明治29年(1896)6月16日に鉄道敷設の免許を受けた近江鉄道は、同33年12月28日、彦根―貴生川間の全線開通を達成しました。今回は、その後の発展と、沿線地域の問題により苦労を強いられる様子を見ていきたいと思います。また、後に合併した八日市鉄道(湖南鉄道)の歴史もたどります。
現在の近江鉄道には、多賀線と呼ばれる高宮―多賀大社間の路線があります。この多賀線は多賀軽便鉄道に由来するものです。明治43年(1910)、従来の鉄道敷設の条件が緩和した「軽便鉄道法」が公布・施行されると、全国で軽便鉄道の敷設ブームとなり、そのうちの一つとしてこの鉄道も生まれました。当時の近江鉄道社長阿部市三郎が大正2年(1913)5月に工事施工の出願を行い、軽便鉄道部分を多賀軽便鉄道として一時的に発足させたのです。従ってこの会社は、犬上郡青波村(現在彦根市内彦根駅近く)にあった当時の近江鉄道会社内に設置されます。建設目的は、伊勢神宮とゆかりある多賀大社へのアクセスを良くし、利用客増加を図ることにありました。大正元年9月12日に敷設免許が下りた多賀軽便鉄道は、翌年の5月23日、近江鉄道へ敷設権利を譲渡します。そして権利を取得した近江鉄道は、早速建設に乗り出し、大正3年3月8日に開業させました。開通によって、期待していた通りに利用客が増加し、会社の業績向上へとつながりました【明と91(5)】。
大正15年10月、宇治川電気の傘下に入り資金に恵まれた近江鉄道は、同年11月の彦根―米原間線路敷設免許申請に続き、昭和2年(1927)6月7日、貴生川―上野間の敷設免許も申請しました。この線は、上野―名張間(ともに三重県内)を縦貫する伊賀電気鉄道に連絡するもので、沿線地域や北陸方面と伊勢・京阪奈地域の利便性をより高める目的がありました【昭と4合本2(1)】。しかし、途中に寺庄停車場を新設する際の用地買収をめぐり、寺庄村(現在の甲賀市)内大字深川と大字寺庄との間で争いが発生したのです。新設計画は大字寺庄側の要望を受けて立てられたのですが、大字深川より、線路の敷設変更で繁栄が損なわれるとして、反対運動が起きました。そのため、近江鉄道は抵抗の生じない土地へ線路を敷設し、寺庄停車場を龍池村(現在の甲賀市)内に置く変更をします。すると、今度は大字寺庄が、自地域より遠方になったことを理由に停車場設置反対の姿勢を見せました。同社は、県に対し両大字の対立解消を求め陳情書を提出しています【大と41合本1(6)】。
このような途中の停車場新設をめぐる争いや会社の経済事情で着工が遅れました。そして昭和16年12月には太平洋戦争がはじまり、買収済みの線路用地が農地に転用、戦後の昭和22年には農地改革の対象となり、敷設地は国に安価で買い上げられてしまったのです。結局貴生川―上野間の完成はなりませんでした。
湖南鉄道は、現在の近江八幡―新八日市間を結ぶ近江鉄道八日市線にあたる鉄道です。明治44年5月、湖南鉄道が線路敷設の申請をすると、同年7月に近江鉄道もすぐさま同一ルートで出願をしますが、先願の湖南鉄道に免許状が下付されました。開業は大正2年(1913)12月29日です【昭と92(12)】。
大正10年12月、湖南鉄道は新八日市付近の中野から山上(現東近江市山上町)へ続く線路敷設の申請を行い、同13年7月に免許を受けました。この路線は、山水の美と紅葉の名所である永源寺へのアクセス向上のために計画されたものです。そして昭和5年(1930)10月、新八日市から計画線途中の飛行場(のちに御園に改称)間が開通し、八日市飛行場への物資や兵員輸送の役割を果たしました。この路線は、昭和23年8月まで運行します。一方の山上へは、周辺地域が名古屋急行の計画線設置駅とされ、設置場所の確定まで工事順延を続けました。しかし、延期申請の手続きが遅れたため、昭和10年6月に敷設免許が失効し、完成は実りませんでした。
昭和2年1月、京阪電鉄が琵琶湖観光の汽船会社の一つである湖南汽船と提携して、湖上の遊覧客を獲得するようになり、これに経営の危機をおぼえた大津電車軌道は、太湖汽船を合併して琵琶湖鉄道汽船と社名を変えました。そして同年5月、琵琶湖鉄道汽船は湖南鉄道とも合併します。しかし翌年、琵琶湖鉄道汽船と京阪電鉄との間で交渉が進められ、両者は昭和4年2月に統合しました。ただしその際、旧湖南鉄道部分が距離的理由から分離され、八日市鉄道として発足することになります【大と41合本3(2)】。
昭和18年5月、宇治川電気から箱根土地の傘下へ移った近江鉄道は、昭和19年3月に八日市鉄道を吸収しました。箱根土地は、西武グループの中核企業である国土計画の前進にあたる企業で、現在も近江鉄道は同グループの一員として経営を受け継いでいます。