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【コラム1】「辛苦是経営」の近江鉄道

平成28年は、明治29年(1896)に会社設立の認可を受けた近江鉄道(株)が120年を迎 える年にあたります。同社は沿線の江州米をはじめとする県産物の搬出をはじめ、湖東 地域と伊賀・伊勢・濃尾・加越方面とを結ぶ往来の利便性向上のために創業されました。 今回は、線路敷設の際に大きな辛苦を強いられた近江鉄道が、どのように全線開通まで 至ったのか、その歴史を追っていきたいと思います。

近江鉄道の設立

滋賀県では、明治22年7月に官設鉄道(東海道本線)が、同23年2月に関西鉄道(草津線)がそれぞれ開業しました。しかし、これらの路線は湖東平野の周縁部に位置するため、平野中心部の町々からは遠いものでした。そこで、大東義徹・西村捨三ら旧彦根藩士や近江商人ら44名が発起人となり、明治26年11月、会社創立願を逓信大臣黒田清隆へ提出したのです。創立願には、江州米など生産物を運搬する際、不便不利が少なくないことや、東海・北陸方面との往来の利便性を発展させる目的が記されています。当初の計画は彦根―深川(甲南駅)間で、官設鉄道と関西鉄道とを連絡するものでした【明て10(25)】。
しかし一方で、会社創立願が出された直後の明治26年12月、近江鉄道期成同盟会から、八日市より直進して関西鉄道三雲駅と連絡する方が、日野・水口経由で深川に達する計画より距離が短縮できるとの批判があがりました。しかし、会社創立の発起人や株式引受者の半数以上が日野・水口の経由地出身者であったことから、結局当初の案は変更されず、翌年7月、鉄道敷設の仮免状が出されます。しかしながら、その後日清戦争が勃発したため創立事務は中断し、戦争が終結した翌年の明治29年に免許状が交付されました。会社は、免許状交付日の同年6月16日を創立日と定めています【明て10(30)】。

路線開業に向けて

その後明治29年9月より、線路敷設のため鉄道用地の買収が進められました。ところが、沿線地域は米作地帯にあたり、鉄道建設によって既存の水利体系に影響が及ぶという懸念が地元住民よりあがったのです。愛知郡八木荘村(現在の愛荘町)大字島川・大字下八木の場合、地元で頻発した過去の宇曽川の洪水被害を列挙し、線路敷設地は水害の一大基因となる場所だと記しています。そして、県に対し水害被害のない土地に移設するよう請願しました【明と51合本2(7)】。このように洪水の心配をされた地域が存在していたのですが、ルートの変更はなされませんでした。その代わり、例えば愛知川では、川の流れの妨げとならないよう近くを通る中山道御幸橋の橋脚と並行して鉄橋の橋脚を据えること、南側堤防に1尺2寸(約36.4cm)の石垣と1尺5寸(約45.5cm)の盛土で橋の高さを高くする対策がとられました【明と61(13)】。
鉄道敷設工事が始まった明治29年9月は、大風水害が発生した他、日清戦争後の物価騰貴等により建材費や用地買収費がかさみました。そこで翌年、工事区間を分け、彦根―八日市間を第1期線、八日市―深川間を第2期線とし、先に第1期線の開業を目指すことにします。そして第1期線の内、彦根―愛知川間が最初に完成し、明治31年6月11日より営業を始めました。残る愛知川―八日市間も、1カ月後の7月24日、営業を開始します【明え243(26・53)】。
一方、彦根―八日市間の第1期線開通までに、当初の全線建設工事予算100万円をほぼ消費する事態となってしまいました。しかし、第1期線のみの営業では八日市までの盲腸線(行き止まりの路線)であるため営業成績が悪く、全線開通を目指す以外、利益の改善は見込まれませんでした。そのため、第2期線工事費用は全額銀行からの借り入れに依存します。そして当時取締役であった西村捨三の尽力で、取締役に就いていた元士族や近江商人らが連帯責任をとることを条件に、大阪北浜銀行から50万円の融資を受けたのです。さらに明治32年6月、当初計画線の一部であった貴生川―深川間が既存の関西鉄道と並行するため、工費削減を目的に彦根―貴生川間へと変更し、翌年の明治33年12月にようやく全線開通を迎えました。

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