文字サイズ

【展示】白熱する滋賀県会―湖国から見た明治維新(3)―

展示期間 平成30年7月23日(月曜日)~平成30年10月18日(木曜日)

 今年は「明治150年」に当たることから、特別展示「湖国から見た明治維新」をシリーズで開催しています。第3回にあたる今回は、大事件が頻発した明治20年代の滋賀県を取り上げます。
 明治22年(1889)公布の大日本帝国憲法により、日本の議会制度は法的な位置が確立し、翌23年には帝国議会が開設、国民は衆議院を通じて初めて政治的な意思を国の法律や予算に反映させる手段を手に入れました。以降、議員は国民の代表として、政府との攻防を繰り広げていきました。明治12年から開設されていた滋賀県会でも、この頃から活発な議論が目立つようになります。中でも県庁移転問題では、当時新築したばかりの県庁があった大津町と、旧城下町の彦根町との間で激しい論争が繰り広げられ、県会の決議は二転三転することとなります。また、坂田・東浅井両郡の分合をめぐる議論では、議論の収拾がつかず内務大臣より県会解散命令が下されるという「前代未聞」の事件へと発展します。
 この白熱する県会をはじめ、日本中を揺るがせた大津事件や琵琶湖疏水の開削、東海道線全通など、県史に残る出来事を公文書によりご紹介します。

帝国憲法の発布と地方自治制度の確立

(1)「憲法発布奉告の件」 明治22年(1889)2月12日

白熱する滋賀県会 史料1

明治22年2月11日、大日本帝国憲法が発布され、また皇室典範も治定されます。滋賀県下の官幣社3社(日吉、建部、多賀)では、これを奉告する(神に伝える)祭典が行われました。この文書は、祭典が無事行われたことを宮内省式部職(儀式等を担当する部署)の長官に報告するものです。【明う117(20)】

(2)「衆議院議員選挙投票用紙と投票箱」 明治23年(1890)2月

白熱する滋賀県会 史料2

明治23年7月1日、第1回衆議院選挙が行われました。滋賀県では、選挙に向けて「選挙事務取扱規則」を定め、その方法や手順を取り決めました。この史料は、投票用紙と投票箱の様式を図示したものです。現在の匿名投票と異なり、当時は投票用紙に住所と氏名の記入及び捺印が必要でした。【明き33合本1(5)】

(3)「町村分合表」 明治22年(1889)2月19日

白熱する滋賀県会 史料3

大明治21年4月、市制・町村制が制定され、全国で町村合併が行われていきます。滋賀県でも合併に向けた調査が進められ、明治22年2月に本史料「町村分合表」のとおり、同年4月1日以降の新町村が通知されました。【明こ69合本7(7)】

(4)「町村会選挙実況報告」 明治22年(1889)5月17日

白熱する滋賀県会 史料4

町村制施行後、各新町村で町村会議員選挙が行われました。本史料は犬上郡長から県へ提出された選挙状況報告書の内、彦根町のものです。選挙前は各党で候補者を立て選挙活動のため「殆ト奔走ノ状」であったが、選挙結果は地域的な偏りは無く、「不快ノ感想ヲ懐クモノヲ見ス」と報告しています。【明こ136(85)】

明治20年代の土木工事

(5)「琵琶湖疏水の儀に付上申」 明治17年(1884)3月19日

白熱する滋賀県会 史料5

明治16年、京都府より琵琶湖疏水開削計画が持ち出されます。その水源となる琵琶湖を有する滋賀県では、開削にあたっての利害調査が行われました。この史料は、その結果を政府へ報告し、開削許可に対しての再考を願ったものです。本県にとっては「到底有害無益ノ事業」であると批判しています。【明ね33(17)】

(6)「関西鉄道会社設立并起業請願」 明治21年(1888)1月23日

白熱する滋賀県会 史料6

明治期の大手私鉄・関西鉄道の設立及び起業請願書です。関西鉄道は、政府が敷設予定の湖東線(東海道線・大津ー長浜間、明治22年開通)と連絡する草津ー四日市間を基幹に、関西一帯へ鉄道網を広げました。しかし、明治39年の鉄道国有法により、国有鉄道「草津線」(現・JR草津線)となります。【明と51合本3(3)】

(7)「瀬田川浚渫工事の件」 明治期

白熱する滋賀県会 史料7

『滋賀県会歴史』第1編7の「附記」には、県会解散に関連する事件がまとめられており、この史料もその一部です。瀬田川の治水については長く県を悩ませ、幾多の議論が行われてきましたが、明治23年11月の臨時県会は、工事費用負担をめぐって「衆論紛々」たる状況であったと記されています。【資31】

(8)「御幸橋破損箇所の図面」 明治24年(1891)10月26日

白熱する滋賀県会 史料8

明治24年10月24日、新設された愛知川御幸橋の橋渡式中に、通行人の加重に耐えきれず新橋が墜落するという大事件が起こります。本史料は、県職員が事故原因の調査を行った際に作成した図面です。部材がどこで分断されたのかなど、破損の状況が示されています。【明に20(19)】

白熱する滋賀県会

(9)「県庁を彦根町に移すの建議」 明治24年(1891)12月16日

白熱する滋賀県会 史料9

県庁が今の場所に移庁して僅か3年後の明治24年、12月の通常県会で彦根町へ県庁を移転する建議が提出、可決されます。この建議では、滋賀県の地理的な中央は彦根町であり、戸口数も大津町より多いことから、彦根町に「一国ノ政庁ヲ置カルヽハ当然動カス可カラサル議ナリ」と論じています。【明き2(4)】

(10)「県庁彦根町移転決議に付建白書」 明治24年(1891)12月28日

白熱する滋賀県会 史料10

県庁移転反対派の署名建白書です。当時の県庁所在地である大津町をはじめとする5町村、3,701名による署名が添えられています。大津町は東京や京阪神からの交通もよく、先の県令らも「大津町ノ地方庁所在地ニ適当セル」ことを認めていたと主張しています。【明お49合本2(6)】

(11)「坂田・東浅井両郡分合の義に付上申」 明治23年(1890)10月

白熱する滋賀県会 史料11

この史料は、郡制(明治23年制定)施行へ向けた郡分合(分離と合併)に対する、坂田・東浅井郡長の意見書です。郡内各町村長らの意向を調査した結果、多数が合併を希望しているので「合併セシメサルヲ得ス」とし、郡名は両郡から一字ずつとって「坂井郡」を考えていると報告しています。【明ふ59(2)】

(12)「郡分合に付建議」 明治24年(1891)12月12日

白熱する滋賀県会 史料12

終りの見えない郡分合問題を憂いた県会は、坂田郡を流れる天野川を境に同郡南部を犬上郡、北部を東浅井郡に分割するのが適当だという建議を大越知事へ提出します。本史料はその建議書で、県会議長岡田逸治郎が、本案を内務大臣へ建議するので、県の斡旋を得たいと申し出ています。【明き16(32)】

(13)「知事不信任をめぐる議論」 明治25年(1892)1月6日

白熱する滋賀県会 史料13

大越知事は、一旦県会の天野川分離案を尊重すると言ったものの、実地調査によりその実現は不可能であるとの結論に至りました。これに憤慨した県会は、明治25年1月6日の臨時県会で「知事ノ食言(嘘)」を「日誌ニ特筆大書」する議案を可決、知事に不信任決議を突きつけたのです。『県会日誌』(議会事務局蔵)

(14)「県会解散命令」 明治25年(1892)2月4日

白熱する滋賀県会 史料14

不信任決議を受けた大越知事は、「国ノ安寧ヲ妨害スル」事態として直ちに県会中止を命じます。同時に、「硬派」を名乗る派閥が他の議員を恐喝し議決を操作していると品川弥二郎内務大臣に報告し、県会の解散を求めました。これにより、明治25年2月4日、「前代未聞」の県会解散が命ぜられました。【明き19(15)】

(15)「滋賀県会解散始末」 明治25年(1892)3月15日

白熱する滋賀県会 史料15

近江新報社により発行された冊子です。「全国稀有ノ珍事」である県会中止や解散に至るまでの、議場紛擾の原因結果を明らかにしようと試みたもので、御幸橋の墜落や県庁移転問題、郡分合などについて言及しています。このような冊子が発行されるほど県会は白熱し、注目を集めていたのでしょう。【明お52(40)】

(16)「大越知事選挙干渉問題譴責」 明治25年(1892)12月23日

白熱する滋賀県会 史料16

県会が一旦解散したからといって、知事と議員の対立が無くなったわけではありません。明治25年12月の通常県会では、解散後の選挙で大越知事が妨害行為を行ったと批判し、今後このようなことがないよう注意を促すことを決議しています。白熱する県会はまだまだ続きそうです。『県会日誌』(議会事務局蔵)

饗庭野陸軍演習場の設置

(17)「饗庭野買収地図面」 明治22年(1889)7月10日

白熱する滋賀県会 史料17

明治22年、現在でも自衛隊の演習場として利用されている高島郡饗庭野(現・高島市)が陸軍の演習場として買収されます。この図面はその買収地を示したものです。高島郡饗庭野は、近世から近隣村々の草刈り場として利用されており、土地の大部分は近隣村落が所有していました。【明ひ3(12)】

(18)「饗庭野開拓に関する井上馨の書状」 明治9年(1876)5月13日

白熱する滋賀県会 史料18

明治初期、井上馨(外務、財務大臣等を歴任)が、饗庭野で開拓を計画します。この史料は、井上が県令籠手田安定に宛てた書状で、井上の不在中、饗庭野民有地買収の準備を進めておいてほしいと頼んでいます。史料(17)の中央部分の木村正幹(井上の従者)持地がこのとき井上が買った土地です。井上は開拓して牧畜を試みますが、失敗に終りました。【明な309合本2(2)】

(19)「野営演習実施の件」明治9年(1876)12月23日

白熱する滋賀県会 史料19

饗庭野は近隣住民の草刈り場として利用される一方で、買収以前から演習場に適した土地として知られており、度々軍事演習が行われてきました。この文書は、明治9年に行われた野営演習に関するものです。県は、該当地域の実測図面を提出するとともに、近隣村々の同意を得た旨を報告しています。【明か27(46)】

(20)「取締掃除人設定の件」 明治22年(1889)8月24日

白熱する滋賀県会 史料20

従前より饗庭野で草刈りをしていた近隣住民に対して、買収後もその権利を保障するため、取締掃除人が設定されました。これは、住民を取締掃除人に任命し、その者が刈り取った下草を無料で払い下げる制度です。この文書は、県が高島郡長へその設定を知らせ、該当者の報告を求めるものです。【明ひ3(10)】

大津事件

(21)「[写真]ロシア皇太子ニコライ・ギリシャ王子ジョージ像」 明治期

白熱する滋賀県会 史料21

大津事件とは、訪日中のロシア皇太子ニコライを、沿道警備にあたっていた津田三蔵巡査が斬りつけ負傷させた事件です。写真に写るのは、大津事件の被害者・ニコライ(右)と、同行していたギリシャ王子ジョージ(左)です。この写真は後年大津を訪れたジョージの妃より贈られました。【資564】

(22)「事件現場の図」(左)・「蒸気船乗船の図」(右) 明治24~26年頃

白熱する滋賀県会 史料22の1
白熱する滋賀県会 史料22の2

事件後まとめられた「露国皇太子御遭難之始末」の挿絵です。一行が観光の際に三保ヶ崎から唐崎まで乗船した蒸気船や、ニコライが沿道警備にあたっていた津田三蔵巡査により斬り付けられた事件現場の様子が描かれています。【明え217(13)】

(23)「露国皇太子遭難の報告」 明治24年(1891)5月11日

白熱する滋賀県会 史料23

事件当日に県知事から内閣総理大臣・内務大臣・外務大臣宛てに提出された報告書です。当日のニコライの動向や事件当時の様子が事細かに記されています。津田三蔵により頭部を斬りつけられたニコライは、人力車を飛び降り、近くの呉服商で手当を受けたといいます。【明か23(3)】

(24)「天皇訪問を知らせる電報」 明治24年(1891)5月11日

白熱する滋賀県会 史料24

事件当日の夜に内閣総理大臣から沖知事へ送られた電報で、天皇は明朝、外務大臣と内務大臣は今夜にも東京を発ち、ニコライの滞在している京都へ向かう旨が知らされました。【明か24合本4(1)】

お問い合わせ
滋賀県総合企画部県民活動生活課県民情報室
電話番号:077-528-3126(県政史料室)
FAX番号:077-528-4813
メールアドレス:[email protected]
Adobe Readerのダウンロードページへ(別ウィンドウ)

PDF形式のファイルをご覧いただく場合には、Adobe Readerが必要です。
Adobe Readerをお持ちでない方は、バナーのリンク先から無料ダウンロードしてください。