文字サイズ

【展示】滋賀の鉄道事始め―汽車と鉄道連絡船の時代―

展示期間 平成26年9月16日~11月6日

鉄道ポスター

今年は日本にとっても滋賀県にとっても、鉄道に関する記念すべき年ということができます。東海道新幹線開通50周年、湖西線開通40周年というだけではありません。そもそも日本で鉄道敷設計画が正式に決定されたのは、今から145年前の明治2年(1869年)のことでした。130年前の明治17年には、長浜・敦賀間の鉄道が全通し、長浜・関ヶ原間の鉄道も大垣まで延伸されます。それに伴い、太湖汽船が日本初の鉄道連絡船として大津・長浜間を結んで活躍します。大津駅・長浜駅は鉄道と汽船との連絡駅としてにぎわっていました。しかし、125年前の明治22年に東海道線が全通、鉄道連絡船の時代は幕を閉じるのです。

今回の展示では、大津・京都間、長浜・敦賀間、長浜・大垣間の3線が敷かれる経緯を追いながら、鉄道と汽船との関わりや、国家の一大事業である鉄道敷設に対する地元の人々の想いを辿ってみたいと思います。

【コラム】浅見又蔵と長浜

大津京都間鉄道

「鉄道製造に付、測量として御雇外国人共出張の件達」 明治3年(1870年)6月

太政官達

明治2年11月10日(西暦では1869年12月12日)、明治政府は廟議(びょうぎ・朝廷の評議)で東京・京都間と東京・横浜間、琵琶湖辺・敦賀間、京都・神戸間の鉄道敷設を決定します。この史料はその翌年、太政官から大津県へ宛てて測量のためにお雇い外国人を引き連れて出張する旨を通達したものです。実際に測量のための杭が立てられたのは翌年6月以降のようですが、その杭が抜き取られたり、測量目標用の「鉄道旗」が紛失したりと、鉄道建設への人々の妨害も多かったようです。鉄道とは何か知らない人々にとっては、測量事業は自分の土地を侵犯する脅威と感じられたのかもしれません。【明う151(16)】

「鉄道路線に付通知」 明治4年(1871年)8月22日

路線通知

明治4年8月21日、工部省より大津県へ大津・京都間鉄道の経路が通達され、翌22日にその内容が滋賀郡二番組惣代へ通知されます。この時点では追分から小関越えで三井寺下へ抜け、そこから北保町に存在した金沢県蔵屋敷(元加賀藩蔵屋敷)まで路線を引くという計画でした。しかし、同年10月28日、この蔵屋敷が売り払われるという情報が大津県に入ります。11月4日には、この蔵屋敷の売却について鉄道寮と金沢県西京出張所が話し合いを行うのですが、すでに蔵屋敷は入札済みとのことで鉄道寮はこの蔵屋敷までの鉄道敷設を諦めるのでした。【明と1(13-2)】

「鉄道建築に付、工部省達(京都から大津)」 明治11年(1878年)6月21日

工部省達

京都から大津への鉄道敷設を通知する工部省達を滋賀県が書き写してまとめたものです。続けて明治12年10月10日付の米原・敦賀間鉄道敷設の工部省達と、明治15年5月5日付の長浜・関ヶ原間鉄道敷設の工部省達が写されています。大津・京都間の工事は外国人の力を借りず、日本人のみの手で完成させた最初の鉄道工事でした。工事は明治13年6月に竣工、7月14日に明治天皇を迎えての開業式が行われ、翌15日から営業運転が開始されました。この区間の開通によって、大津から神戸まで鉄道でつながるのです。 【明と3合本4(1-1)】

「大谷駅構内図」

大谷駅

「明治21年各停車場構内図」と名付けられた15枚の図面のうちの1枚。他の構内図の中に、明治24年(1891年)に設置され32年に廃止された深谷駅の構内図も含まれているため、明治20年代後半の図面だと思われます。当時の大津・京都間の路線は、現在のルートとは異なっていました。京都駅から現在のJR奈良線を南下し、稲荷山の南を迂回して北東へ曲がり、大津市大谷町から逢坂へと至る逢坂山トンネルを抜けて馬場停車場(現JR膳所駅)へ到着、スイッチバックで大津乗車場(現浜大津駅)へと向かっていたのです。大谷駅は逢坂山トンネル西口に位置していました。大谷駅は、大正10年(1921年)の東海道線の付け替えにより逢坂山トンネルとともに廃止されました。【明と24合本1(7)】

長浜敦賀間鉄道・長浜関ヶ原間鉄道と太湖汽船

「鉄道変換の儀に付上申」 明治12年(1879年)11月17日

鉄道変換上申書

明治12年10月10日付の米原・敦賀間鉄道敷設の工部省達に対し、滋賀県大書記官酒井明が県令代理として提出した意見書です。その内容は(1)鉄道を敷設するのは敦賀から塩津までとし、塩津・米原間の敷設を延期すること、(2)彦根から大垣まで鉄道を敷設すること、の2点に要約することができます。北陸地方の旅客や物産を敦賀・塩津間の鉄道で、東海地方からは大垣・彦根間の鉄道で、それぞれ輸送するとともに、塩津・大津間、彦根・大津間は琵琶湖の水運を利用するというものです。しかし、琵琶湖水運を最大限活用するというこの意見書は受け入れられることはありませんでした。【明お76合本5(24)】

「敦賀・米原間鉄道敷設着手に付、諭達」明治13年(1880年)5月5日

諭達

鉄道敷設は、土地を手放さなければならない人々にとっては、やはり負担が大きかったようです。彼らは「一己ノ苦情ヲ唱ヘ、掛員(かかりいん)ヘ対シ彼是(かれこれ)申出」ることもあったのでしょう。それに対して県令籠手田安定(こてだやすさだ)は、「鉄路敷設」は「国家公衆の便益」を図るものであると述べ、苦情や請願によって線路を変更することはないとして、心得違いがないように各村へ触れ諭すよう郡役所に指示を出しています。人々の生活と公益と、どちらを優先すべきかは当時も今も難しい問題です。なお、宛先に敦賀郡役所も含まれているのは、敦賀郡がこの当時滋賀県に属していたからです。【明い117(15)】

「新道開墾港口修築願書」 明治13年(1880年)1月

浅見願書

米原・敦賀間鉄道敷設の工部省達に対し、後に長浜町長にもなった実業家の浅見又蔵は、長浜・関ヶ原間に私設鉄道を敷設する計画のもと、この区間に新道を開設することと長浜港を修築することを県に願い出ます。添付されている株式募集の呼びかけ文には、長浜・関ヶ原間に直線の新道を開設して距離を短縮し、資本の蓄積に応じて順次鉄道を敷設し、敦賀及び関ヶ原からの陸運と琵琶湖の水運を長浜港で連絡させるという構想が述べられています。長浜を「全州(滋賀県)ノ一都会」にしようという浅見又蔵の意気込みが伝わってくる史料です。【明と9(107)】

「其社船と陸上鉄路との連絡に係る指令書下付」 明治14年(1881年)10月12日

太湖汽船

滋賀県や浅見又蔵だけではなく、鉄道局長井上勝も琵琶湖の水運を利用することを考えていました。しかし、当時琵琶湖では江州丸会社や三汀社(さんていしゃ)といった汽船会社が激しい競争を繰り広げていました。井上はこれらの汽船会社を統一し、大津・長浜間の湖上運輸を担わせようとします。明治14年9月、太湖汽船会社が設立され、鉄道との連絡輸送を鉄道局に出願します。三汀社を買収していた浅見又蔵もその出願者の1人です。翌10月、鉄道局により許可されるとともに、その営業条件が太湖汽船に提示されます。この史料は、その条件を記した「指令書」を太湖汽船へと渡す際のものであると考えられます。【明い127(132)】

「長浜港買収の通知」 明治17年(1884年)5月9日

長浜港買上

「新道開墾港口修築願書」を提出した浅見又蔵は、明治13年5月13日に「水路開通願書」を提出して築港工事を県に願い出ています。この願書は10月19日に許可され、11月1日着手、明治16年4月30日に竣工しています。工事にかかった費用は36,093円12銭5厘で、当初は港を利用する船から入港料を徴収する予定でした。しかしその後、浅見から太湖汽船会社への工事一切の譲渡話を経て、最終的には鉄道局が36,400円で工事を買い上げることになります。浅見は5月15日に承知する旨の「上申書」を提出、長浜港は鉄道局の管理下に置かれるようになります。【明ぬ121合本2(4)】

「敦賀・柳ヶ瀬隧道西口間、長浜・柳ヶ瀬間汽車運転の件」 明治15年(1882年)3月7日

長敦間開通

米原・敦賀間鉄道は、当初の計画では塩津を経由していました。しかし、明治13年1月、井上鉄道局長はその計画変更を政府に上申します。敦賀・塩津間の勾配が急であるとの理由から経由地を柳ヶ瀬とすること、また米原の立地条件や港としての機能から敦賀への起点を長浜に変更することがその内容です。この上申は翌月許可され、4月に工事に着手します。その長浜・敦賀間の工事の難所は、柳ヶ瀬トンネルでした。1352.1メートルのトンネルは、当時は日本最長のトンネルでした。トンネルを除く区間がまず開通し、その約2年後の明治17年4月16日、ようやく長浜・敦賀間が全通するのです。【明あ325合本1(23)】

「長浜・関ヶ原間鉄道落成、5月1日開業」明治16年(1883年)4月27日

長関間開通

浅見又蔵の「新道開墾港口修築願書」で構想されていた長浜・関ヶ原間鉄道は国の事業として行われることになります。明治14年6月、井上鉄道局長が長浜から関ヶ原への路線延長を政府に上申、柳ヶ瀬トンネルを除く長浜・敦賀間が開通した直後の明治15年4月24日に許可され、5月5日付で長浜・関ヶ原間鉄道敷設の工部省達が出されます。長浜・関ヶ原間開通後の5月17日、井上鉄道局長はさらに大垣への延長を上申します。長浜・大垣間が全通するのは長浜・敦賀間全通直後の明治17年5月25日です。5月15日には鉄道と太湖汽船との連絡切符が発売され、日本初の鉄道連絡船が誕生します。【明と19(137)】

「大津・長浜間鉄道線測量の件」 明治21年(1888年)1月31日

湖東鉄道

長浜・敦賀間鉄道全通及び長浜・大垣間鉄道全通により、長浜停車場は北陸地方・東海地方からの旅客や物産を集約し、太湖汽船へと連絡する接続駅として賑わっていました。それは京阪地方からの接続駅であった大津乗車場も同様でした。しかし、その繁栄は長くは続きませんでした。湖東に鉄道が開通し、東海道線が全通したのは、この翌年の明治22年7月1日のことです。全通にともない、鉄道と太湖汽船との連絡の必要がなくなったため、大津・馬場間の旅客列車は廃止されました。また、東へは長浜を経由せずに米原から向かう路線が敷設されました。汽車と鉄道連絡船の時代は終わりを告げたのです。【明い176(44)】

鉄道と人々

「鉄道蒸気車駃走図」

蒸気車

京都府発行の木版印刷物に挟み込まれていた木版絵図面です。その印刷物には、「鉄道建設計画告知」や、「ボールレン(米)、コンシュルカワル(英)両氏の鉄道推奨の弁」「欧米諸国の鉄道事業紹介」が載せられており、この絵図面も鉄道蒸気車がどのようなものかを紹介するための絵図面であったと考えられます。シルエットで描かれている乗客の中には、帽子をかぶっている人物や、扇子を持っている人物もいます。速いだけではなく、快適な旅でもあるというアピールなのでしょうか。【明と2(1)】

「鉄道御開設に付、停車場御設置願書」 明治17年(1884年)7月10日

歎願書

長浜・敦賀間鉄道が全通した直後に提出された、停車場設置を求める願書に付属していた絵図面です。河毛停車場(絵図面では川毛)と木ノ本停車場の中間に設置を要望している地点が描かれていますが、実際には高月停車場の方が若干中間寄りに位置しています。高月停車場を廃止して井ノ口停車場を設置するか問題になりますが、結局は高月停車場を存続させたまま井ノ口停車場を併設することになります。しかし、井ノ口停車場は後に廃止されてしまいます。【明と21(97-3)】

「建白書付属絵地図」 明治17年(1884年)9月2日

建白書絵図

長浜・関ヶ原間鉄道が大垣まで延伸した後も、長浜・関ヶ原間の停車場は春照ただ1つだけでした。この絵地図は、長浜・春照間の西上坂村に停車場を開設してほしいという県への建白書に添付されていた絵図面です。長浜町から延びる赤い点線が鉄道路線を表しており、上へ向かう点線が大垣への路線、左へ向かう点線が敦賀への路線です。しかし、結局停車場が設置されることはなく、東海道線が米原経由で全通した後の明治32年、この路線は廃止されてしまいます。【明と21(151-2)】

水陸連絡の拠点・長浜

「長浜ステーション・長浜駅船舶回転地」

長浜ステーション
長浜船舶回転地

「長浜停車場外の停車場敷地図入」と題された6枚の絵図面のうちの2枚です。長浜停車場は長浜・敦賀間鉄道と長浜・関ヶ原(のち大垣)間鉄道という2つの路線の停車場であるだけではなく、太湖汽船との連絡港でもありました。上の「長浜ステーション」の図には敦賀線・関ヶ原線の2本の線路が描かれています。下の「長浜駅船舶回転地」の図では長浜停車場の左側に汽船会社が描かれています。長浜が水運・陸運が接続する交通の要であったことを伝えてくれる図面といえるでしょう。 【明と3合本1(22)】

お問い合わせ
滋賀県総合企画部県民活動生活課県民情報室
電話番号:077-528-3126(県政史料室)
FAX番号:077-528-4813
メールアドレス:[email protected]