文字サイズ

【展示】社会事業のはじまり―近代滋賀の貧困対策―

展示期間 平成28年3月22日(火曜日)~5月19日(木曜日)

展示ポスター(社会事業)

今日の日本社会では、日本国憲法第25条において、人間が人間らしく生きる権利(生存権)が保障されています。しかし戦前の大日本帝国憲法下では、そのような権利は国民に認められていませんでした。明治7年(1874年)に公布された恤救規則では、救貧事業は親族や町村など「人民相互ノ情誼」で行われるべきとされ、政府や府県の関わりは極めて限定的なものでした。
しかし20世紀を過ぎると都市化が進み、生活水準が向上する一方で、貧富の格差が大きくなっていきます。大正7年(1918年)に全国で発生した米騒動は、社会のなかの貧困を明るみにし、政府や府県が本格的に社会事業を始めるきっかけとなりました。今回の展示では、人びとの生活を支える仕組みがどのように移り変わってきたのか、県の公文書を通してご紹介します。

【コラム1】貯蓄組合の時代
【コラム2】保導委員の設置

明治期の救貧事業

「恤救規則」 明治7年(1874年)12月8日

恤救規則

近代日本最初の救貧法。明治7年1月20日、滋賀県令松田道之が内務省に提出した旧彦根県(藩)在住者の救助願が契機となり制定されました。救貧事業は親族や町村など「人民相互ノ情誼」で行われるべきであり、政府からの給付を乞わずに済ませるのが本旨とされています。働くことができず、身寄りのない貧困者に対して米代が支給されました。当初の給付期間は、内務省の指示を仰ぐまでの50日以内だったものの、同9年には撤廃されました。【明あ98(120)】

「重症飢餓の行旅病人救護方及費用」 明治16年(1883)3月14日

重症飢餓の行旅病人救護方及費用

明治期の身寄りのない貧困者は、まず町村が救助すべきものとされました。例えば明治16年度の町村救助総額(1,954円)は、国費(925円)の2倍以上となっています。その一方、同16年度より県予算(地方税)に登場した「救育費」は、行き倒れの護送手当や薬・食料費などでした(190円)。さらに翌年度からは、身寄りのない入監女性の乳児養育費のうち、国費不足分が計上されています。県は主に町村・国の救恤を補う役割を担っていました。【明い138(14)】

「救恤願具申書」 明治24年(1891)3月20日

救恤願具申書

恤救規則が施行されてしばらくは、国費救恤の申請様式は存在しませんでした。しかし書類の不備が問題となり、明治22年10月18日、救恤を申請する場合には、町村長の上申書や警察の調書、戸籍の写などを提出するよう定められました。この際町村長は、本人の来歴や困窮状況に加え、町村費で救助できない理由を明記する必要がありました。本史料でも、村のわずかな金額では、一時的な救助にとどまり継続が難しいと説明しています。【明そ1(8)】

「国費救助の件」 明治41年(1908)7月8日

町村の救助総額は、明治20年代末から急増し、明治30年代は平均3,805円にもおよびました。それに合わせて国からの救恤額も増え、同時期の平均額は2,183円となっています。これに危機感を強めた内務省は、明治41年5月21日、恤救規則の本旨を強調し、「濫給ノ弊」をなくすよう求めました。同年7月には、県より各郡市にその旨が伝えられ、その結果、国からの救恤を受けていた者全員が給付を打ち切られることになります。【明い272(62)】

貯蓄組合の時代

「貯金を奨める告諭」 明治10年(1877)7月5日

政府や県は、貧困者の救恤を町村に期待するとともに、民間貯蓄の奨励を熱心に行いました。貧民に貯蓄をさせて困窮から守るのは政府の義務だとして、明治8年5月より駅逓局(郵便)預金制度が開始されます。県内では、明治10年7月10日より大津郵便局が業務を始めました。その際、県令籠手田安定は、中等以下の人民が貧困に陥るのは「理財ノ法」を知らないからであり、塵も積もれば山となると貯金を奨励しています。【明い93(3)】

『農商工業衰頽実況取調答申書』 明治18年(1885)8月

農商工業衰頽実況取調答申書

明治14年10月、大蔵卿に就任した松方正義のデフレ政策は、農村の窮乏化を招き、県内でも明治17・18年は、町村救助費が激増します。明治18年5月26日、農商務省はこの衰退状況に関する下問を行い、県は民間から選ばれた勧業委員などに諮問を行いました。本史料はその答申書で、地租の軽減や節倹の必要性などが説かれています。この答申を受けた県令中井弘は、町村ぐるみの新たな貯蓄制度の整備に取り組むことになります。(滋賀県蔵)

「貯蓄組合準則」 明治18年(1885)11月4日

貯蓄組合準則1

普通・備荒の2種類の貯蓄組合に関する規則。いずれの組合も、その範囲は原則数か村(連合戸長役場が管轄する区域)とされ、災害や凶作の際のみ払い戻しが認められました。従来滋賀県では、明治10年より私蓄備荒金という独自の貯蓄制度が整備されていましたが、度重なる災害で貯蓄額は底をつき、最も貯蓄が必要な小作農や商工業者は排除されていました。この貯蓄組合は、全ての住民を網羅する「民主的」な貯蓄制度として発足したのです。【明い157(76)】

「蒲生郡鎌掛村の貯蓄組合(満月会)」 明治42年(1909)

蒲生郡鎌掛村の貯蓄組合(満月会)

明治41年10月13日、明治天皇より戊申詔書が発布され、国民は「勤倹産ヲ治メ」るよう求められました。同43年には、甲賀郡伴谷村や蒲生郡鎌掛村がその奨励地方団体として表彰されています。鎌掛村では、同27年5月に満月会という貯蓄組合を結成し、村民は毎月所得に応じて、甲種30銭、乙種15銭、丙種3銭ずつ積み立てていました。同村のように、勤倹貯蓄に励んで公費に頼らない町村は、「模範村」として褒め称えられたのです。【明え266合本2】

「未発」の米騒動

「貧困者の実態に関する下問奉答書」 大正5年(1916)6月

明治政府の貧困者に対する救恤は、極めて限定的なものでしたが、大正期になると大規模な実態調査が開始されます。当時は大正3年より米価が急激に下落していた一方、第一次大戦の影響で日用品が高騰していたためです。県の調査によると、中農以上の窮乏化により農家経済が緊縮したため、日雇労働に従事する貧困者も収入が減少したようです。しかし彼らは、そのほとんどを食費(米代)にあてていたため、物価騰貴の影響は小さいとしています。【明え266合本3(1)】

「米価対策の告諭」 大正7年(1918)8月12日

大正7年に入ると、それまで下落していた米価が急に高騰し始め、米騒動と呼ばれる民衆の米の廉売強要や打ちこわしが全国に広がりました。これに危機感を抱いた県知事森正隆は、(1)米商に売り惜しみや買い占めを戒めさせる、(2)政府に外国米を請求して郡市に配布する、(3)地方の富豪・篤志家に寄付を募り廉売を行わせる、(4)公費をもって救済する、の4つの米価対策を公表し、県内への波及を防ごうとしました。【大そ37(1)】

「栗太郡山田村の不穏な噂」 大正7年(1918)8月14日

大正7年の米価騰貴により、貧困者の多くは一層の生活難に陥っていました。そのような中、栗太郡山田村内の集落では、住民たちが京阪神地方の米騒動の噂を耳にし、8月12日夜に草津町の米商と居住地の区長を襲う計画を立てているという風評が流れます。しかし村長の迅速な対応に加え、14日に村内の有志者が300円、草津の米商が白米7斗5升の寄付を申し出たことで、大事には至りませんでした。【大そ37(16)】

「下賜金配当を求める御願書」 大正7年(1918)8月24日

栗太郡山田村の労働者・米田元二郎による下賜金配当を求める御願書。村長は配当の必要性を認めなかったものの、米田が「性質獰悪」「素行不良」の上、4月頃に工場で賃金値上げの「同盟罷工」(ストライキ)を企てたほどの人物であることに懸念を抱きました。そこで、再び他人を煽動してどのような「不心得ノ所為」をするかわからないとして、特別に米の廉売券を交付することに決めるのです。この「寛容な」対応の背景には、上記の不穏な噂がありました。【大そ37(14)】

保導委員の設置

「社会事業に関する委員の資料」 大正9年(1920)3月15日

大正7年の米騒動は、町村主体の救貧事業の脆弱性を明らかにしました。翌8年3月1日、内務大臣床次竹二郎は、自治観念の陶冶や階級調和の促進などの5大要綱を示した訓令を発布し、各地でその実現に向けた民力涵養事業の実施を求めています。その後、内務省地方局は、済生顧問(岡山県)や方面委員(大阪府)など、各地で設立されていた社会事業に関する委員が「頗ル有益」であるとして、県に資料を送付して同委員の設置をうながしました。【大そ3(9)】

「廃案となった知事諮問事項」 大正9年(1920)9月9日

大正8年9月12日、町村自治の普及徹底のために、県内の町村長から成る滋賀県自治協会が発足します。同協会では社会事業が重視され、発会式閉会後に、県知事掘田義次郎より「刻下町村ノ経営スベキ緊急ナル社会事業如何」という諮問がなされています。この諮問事項は、当初は冠婚葬祭費などの節約に関する内容でしたが、文案作成過程で内務部地方課長井上政信より「今少し大なる問題なきや」と批判がなされ、発会式前日に修正されたものでした。【大こ37(1)】

「滋賀県保導委員設置規程」 大正10年(1921)2月19日

滋賀県保導委員設置規程

知事の諮問を受けて構想された社会事業に関する委員の設置規則。保導委員と名付けられ、県内務部の社会課新設にともない発足しました。市町村ごとに3名以上を選任するという規定で、任期は3年の名誉職です。生活困窮者の調査を行い、社会事業団体などと協力して、その改善向上に努めることとされました。当初は教育関係者や宗教関係者、医師・産婆などが想定されています。昭和3年7月に方面委員と改称し、敗戦後は民生委員として現在に至ります。【大あ49(9)】

「蒲生郡安土村・河辺法寿の事績調書」 大正15年(1926)

蒲生郡西性寺の住職河辺法寿は、同郡安土村で保導委員を長く務めた人物です。河辺は同委員として、被差別部落の改善に力を注ぐとともに、家庭の融和や職業紹介、託児所設置など多岐にわたる活動に携わりました。また委員同士の連絡提携のために、毎月13日に大津の山川丈助、河瀬の那須凌岱など、創設時以来の古参委員たちと集まる機会をもっていたようです(十三日会)。この会合は、同委員制度が地域に定着していく上で大きな役割を果たしました。【大そ46(1)】

「近江療養院」 大正~昭和初期

近江療養院

大正期に本格化した社会事業は、多くの民間有志の手で支えられていました。建築家として著名なウィリアム・メレル・ヴォーリズもその一人です。大正七年に近江基督教慈善教化財団を設立し、蒲生郡宇津呂村(現近江八幡市)の山麓に結核療養所として近江療養院(現ヴォーリズ記念病院)を開設しています。同院では、入院料に等級をつけず、治療に必要な実費のみをとる実費診療主義で経営されました。病舎はもちろんヴォーリズの設計によるものです。(県立図書館蔵)

お問い合わせ
総合企画部 県民活動生活課 県民情報室
電話番号:077-528-3126(県政史料室)
FAX番号:077-528-4813
メールアドレス:[email protected]