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【展示】滋賀の商業と近江商人

展示期間 平成27年10月13日~平成27年11月26日

展示ポスター(近江商人)

現在、近江商人といえば、「売り手よし」「買い手よし」「世間よし」の「三方よし」の経営理念で知られる、その高い倫理性や社会貢献が注目を集めています。しかし明治初期の県当局は、近江商人を自己の利益ばかり追求して地域に貢献しない存在ととらえていました。滋賀県の産業化を推進したい県令たちは、県内有数の富豪でありながら、県外でばかり活躍する近江商人を、あまり望ましいものとは考えていなかったようです。
今回の展示では、県当局と近江商人たちが、ときに摩擦を生じながら、ともに県内の商業の発展に尽くしてきた様子を見ていきます。「他国稼ぎ」を生業とする近江商人は、どのように県当局や地域社会に向き合ってきたのでしょうか。滋賀県庁に残された公文書から、近江商人の新たな一面をご紹介してみたいと思います。

【コラム】近江商人と地域社会

近江商人と滋賀県

「江州バンク設立伺書」 明治5年(1872)4月

大津県が滋賀県に改称してまもなく、権参事桑田安定らは、県内初の銀行「江州バンク」の設立について大蔵省に伺い出ています。このなかで桑田らは、県内には「富豪之民」が多く、東京・函館・松前などに出店して交易をなす「江州商人」が世に名高いものの、彼らはもっぱら各自の事業に務め、規模も小さく、共同して遠大な事業に着目しないと批判しています。この「江州バンク」構想は、近江商人の代わりに投資をうながそうとしたものでした。【明う155(33)】

「勧業の儀に付伺書」 明治8年(1875)3月19日

県令松田道之が内務省に提出した、政府の勧業費援助を求める伺書。この文書のなかでも、滋賀県は風土や地質に恵まれて富豪も多いが、商家は出稼ぎが多く、自国(県内)に向けて事業を興す者が少ないと、近江商人が批判の対象となっています。「他国稼ぎ」を生業とする近江商人は、滋賀県内の産業化を推進する県令たちにとって、あまり望ましい存在とはみなされていなかったようです。 【明う21(98)】

「勧業社規則」 明治5年(1872)4月

「国益民福を為す者」への融資を目的とした結社の規則。能登川商人の阿部市郎兵衛が県庁に千両を寄付したことがきっかけで設立されました。阿部は古くより窮民救助に尽力していた人物で、この結社も貸付金の利息の一部が窮民救助に用いられました。阿部に加えて、日野商人の正野玄三が500両、中井源左衛門が700両など、近江商人も多額の資金を同社に提供しています。近江商人たちも、決して県内の動向に無関心でいたわけではなかったのです。【明い30(49)】

「近江商人の由来」 大正元年(1912)

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滋賀県の商工業振興のためにまとめられた『滋賀県がいどぶつく』の冒頭には、「近江商人の由来」が掲載されています。同書によれば、資本集中が進んだ明治維新後も、近江商人は単独経営の「旧習」を改めず、維新以前からの得意先に商品の卸売りを営む者が多かったようです。しかし東京に店を構える近江商人は2千戸にのぼり、個人営業者のなかで第1位となっています。また大阪・京都でも大きな影響力をもっていたようです。(『滋賀県がいどぶつく』第2巻、滋賀県蔵)

「商法会議所設立の儀に付上申」 明治12年(1879)10月15日

江戸時代の大津は、琵琶湖の水運を生かして物資流通の集散地として繁栄し、約6千戸のうち過半が商業者で占められていました。そのため商工業者の代表の集まりである商法会議所が、東京・大阪に次いで全国3番目に設立されています。初代会頭には三井銀行元締の堀口嘉右衛門が就任し、事務所は大津白玉町八番屋敷に置かれました。その後大津は、東海道線の開通により、次第に商業都市の性格を弱めていくことになります。【明う29(19)】

商況通信の発行

「商況調査の布達」 明治13年(1880)6月15日

大書記官河田景福が、米や麦、茶、醤油など諸物産の相場や売買状況などを調査させるため、県内各地で商況通信委員を任命した布達。そのなかには、大津の山中新兵衛、彦根の井関寛治などと並んで、八幡商人西川甚五郎の名を確認することができます。近江商人は、県内商業の発展のため、自身の仕入れた情報を県全体で共有する働きもしていたのです。【明い117(124)】

「商況通信之件」 明治13年(1880)

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明治11年8月、第二課を改称して設置された勧業課は、物産繁殖や通商工芸に関する事業を取り扱う部署でした。同課は事業の優先順位を決めたり、将来の予測を立てるため、毎年「年報」を刊行していました。第2回年報の商業に関する記事には、管内枢要の地に商況通信委員、横浜・神戸など輸出入に関わる諸港に特別通信委員を置くと記されています。 (『滋賀県勧業課年報 第2回』滋賀県蔵)

「商況通信」 明治14年(1881)5月

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県内の商業情報を集めた商況通信は、毎月勧業課が刊行していた報告書に掲載されました。この報告書には、商業に加えて農業や金融の現状も記されています。第11号の通信では、八幡商人の西川甚五郎が、八幡と越前産の蚊帳が麻糸の高騰で産出が少なくなり、商人は買い控えているが、次第に需要の季節に入るので改善される見込みだと報告しています。(『滋賀県勧業課報告』第11号、滋賀県蔵)

商業学校の開校

「商業学校規則」 明治19年(1886)3月4日

大津町に置かれた滋賀県商業学校の規則。伝統的に近江商人は、信頼のおける近江出身者を雇用し、ゆくゆく別家(暖簾分け)の設立を想定した丁稚奉公人を育成する仕組みをもっていました。しかし次第に、近代産業に応じた実業教育の必要性が説かれるようになり、明治19年には県令中井弘の主導で滋賀県商業学校が設立されました。府県立としては、全国初の商業学校でした。【明い162(37)】

「商業学校移転の議論」 明治31年(1898)12月22日

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商業学校の運営が軌道に乗り、校舎改築の要望が高まると、神崎郡と蒲生郡(八幡町)の間で激しい誘致運動が展開されるようになりました。最終的に県会で八幡町への移転が決まり、明治34年4月、八幡町に隣接した蒲生郡宇津呂村に本館が建てられました。同年6月に滋賀県立商業学校と改称し、明治41年には滋賀県立八幡商業学校となります。多数の優秀な経営者を輩出したことで、「近江商人の士官学校」とも呼ばれました。(『県会日誌』議会事務局蔵)

『新近江商人』第155号 昭和17年(1942)11月1日

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八幡商業高等学校の校報。連載「その頃の母校を語る」のなかで、第27回卒業生の広瀬了義(野洲郡北里村出身)は、日露戦争直後は全国の中流階級の子弟が多く、学資も潤沢で「モダンボーイ」もいたと回想しています。その一方、まだ自転車が「民衆化」していなかったため、過半は「テク党」(徒歩)だったようです。また校内で仏教派とキリスト教派の対立が激しくなり、英語教師だったヴォーリズが同校を去った逸話も伝えています。(滋賀県蔵)

物産蒐集所の設置

「第3回関西府県連合共進会陳列区分全図」 明治21年(1888)

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滋賀県が最初に出品した関西府県連合共進会の見取図。明治10年に東京上野公園で、第1回内国勧業博覧会が開催されて以降、殖産興業を目的とした博覧会・共進会が全国各地で開かれるようになります。関西府県連合共進会は、関西のいくつかの府県が集まり、広範囲に出品物を設定して開催されました。これらの場を通じた、主催者と出品者・観覧者同士の交流は、品質の向上や生産方法の改善、市場の拡大などに大きな役割を果たしたようです。【明て43(193)】

「滋賀県物産蒐集所規則」 明治21年(1888)7月9日

明治21年6月、新築間もない県庁敷地内に設けられた物産蒐集所の規則。県内外の製品を陳列して一般の閲覧に供し、県内産業の改良・発達が目的とされました。入館できるのは、毎週土曜日の午前9時から午後3時までで、入場料は無料でした。展示物は観るだけでなく、係員に申し出れば、性質・効用などの質問や購入もできました。明治31年に誰もがわかりすいよう物産陳列所と改称し、33年には同所で滋賀県物産共進会も開催されています。【明い17(92)】

「物産陳列場新築落成式式辞」 明治36年(1903)4月24日

物産陳列場新築落成式における知事の式辞原稿。従来陳列場に充当されていた建物は規模が小さく、明治34年に県会の協賛を得て移転することが決定しました。明治35年5月に起工し、翌36年3月に竣工します。式辞では、産業の発達を図るには、物産の精粗優劣を比較対照して当業者を啓発したり、物産を世間に紹介することが近道だと、陳列場の意義が説かれています。【明お58(94)】

「滋賀県物産陳列所」 大正元年(1912)

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明治36年に竣工した滋賀県物産陳列所の写真。 (『滋賀県がいどぶつく』第2巻、滋賀県蔵)

『商品陳列所同出品協会年報』 昭和7年(1932)12月

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大正10年4月1日、物産陳列所は商品陳列所に改称されます。さらに昭和7年10月1日に組織を改めて、物産販売斡旋所の業務の一部に移されました。同年報の出品人名簿のなかには、日野商人である正野玄三の名を見ることができます(売薬)。(滋賀県蔵)

明治を生き抜いた近江商人

「阿部市郎兵衛の事跡調査」 大正13年(1924)

皇太子裕仁親王(後の昭和天皇)婚礼を記念した贈位願いに関する事績調査。代々麻布問屋である「能登川の阿部家」は、「五個荘の山中家」、「高宮の堤家」とともに「近江三福」の1つといわれました。7代目阿部市郎兵衛は、米穀肥料問屋を新たに始め、明治24年には阿部製糸場を創設しました。同製糸場は明治37年に富士製紙株式会社と合併し、現在の王子製紙に至ります。他にも近江鉄道や近江銀行、金巾製織(後の東洋紡)の設立などにも尽力しました。【大え67(21)】

「塚本定右衛門の事績調書」 大正13年(1924)

五個荘の呉服太物店を継いだ2代目塚本定右衛門は、明治22年に日本橋伊勢町を本店として塚本商社を設立し、現在のツカモトコーポレーションの基礎を築きました。その事績調書によれば、父(史料中の祖父は誤り)の遺訓5カ条を守り、家業に勤しんだようです。店員を養子のようにみなし、無給の代わりに必要経費を全て負担し、年数を重ねれば別家として独立させました。途中で退店する者には、給料相当の慰労金を手渡したようです。【大え67(29)】

「小林吟右衛門の事績調書」 大正13年(1924)

3代目小林吟右衛門は、明治6年に愛知郡豊椋村で生まれ、同16年に呉服太物卸商の家督を相続しました。屋号の「丁子屋」は通称「丁吟」で知られ、年々業務を拡張して、明治38年には合名会社となりました(現在のチョーギン)。事績調書には、高等小学校改築の敷地買収費や、姉川震災の罹災救助金などを寄付したことが記されています。【大え67(43)】

「外村与左衛門の事績調書」 大正13年(1924)

12代目外村与左衛門は、神崎郡金堂村に本店をもつ呉服木綿卸商の当主です(現在の外与)。事績調書によれば、代々伝わる遺訓「積善ノ家ニハ余慶アリ」を守り、身寄りのない貧民や不幸な者を救済する一方、他人に知られないよう努めたようです。また神社仏閣や公益事業などにも、多額の寄付を惜しまなかったと記されています。その他に、肥料工場が排出した亜硫酸ガスにより、近隣の農作物が被害を受けた大阪アルカリ事件の原告で知られています。【大え67(35)】

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