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【展示】幕末を駆け抜けた彦根藩士―官軍となった井伊の「赤備え」―

展示期間 平成29年7月31日(月曜日)~平成29年10月19日(木曜日)

展示ポスター(彦根藩)

 幕末維新期の彦根藩士といえば、大老井伊直弼の側近である長野主膳や宇津木六之丞の名がよく知られています。彼らの名は、吉田松陰ら尊攘派の志士を弾圧した安政の大獄と重ねて記憶され、幕府の屋台骨を支える彦根藩というイメージを強めています。
 しかし、安政7年(1860)3月に直弼が江戸城桜田門外で暗殺された後は、彦根藩では「勤王派」が台頭し、長野・宇津木を粛清する大きな政変が起こりました。戊辰戦争でも真っ先に新政府側に付き、箱館(函館)を除く戦争の全局面に参加しています。この動きを推し進めた「勤王派」の藩士たちは、維新後も様々な分野で活躍しました。
 今回の展示では、大正期に作成された旧藩士の履歴書を通じて、幕末期に活躍した彦根藩士の人物像に迫ります。今年は大政奉還150年という節目の年を迎えます。いま改めて、あの激動の時代に思いを馳せてみてはいかがでしょうか。

井伊直弼のブレーンたち

「中川禄郎」(1796-1854)

藩校弘道館の教授を務めた彦根藩の儒者。弘化4年(1847)11月、世嗣になったばかりの直弼に、「蒭蕘之言」4巻20編を献呈し、人君の道を説きました。直弼はこの書物を藩政の指針とし、生涯傍に置いたようです。西洋事情にも明るく、ペリー来航の際には「籌辺或問」を著し、直弼が幕府に提出した開国容認の意見書に影響を与えました。安政元年(1854)12月、直弼の大老就任を待たずに死去しました。【大え62(39)】

「宇津木六之丞(景福)」(1809-1862)

大老井伊直弼が重用した側近の1人。前藩主直亮(直弼の兄)の信任も厚く、天保13年(1842)11月以降、江戸での城使役(幕府や諸大名との仲介役)を務めました。直弼の藩主就任以後は、相州(神奈川県)預所奉行として、ペリーの浦賀来航にも立ち会っています。嘉永7年(1854)3月に側役に任じられ、直弼が大老に就任すると公用人も兼務しました。宇津木の公務日記「公用方秘録」は、幕末政治史研究の一級史料として知られています。【大え62(37)】

「長野主膳(義言)」(1815-1862)

井伊直弼の側近を務めた国学者。天保13年11月、直弼と師弟の契りを結び、和歌や国学の知識を教授しました。直弼の大老就任後は、上京して志士の動静を探り、安政の大獄の端緒を作りました。直弼の死後も藩政に関与し続けましたが、文久2年(1862)7月、直弼と対立していた一橋慶喜が将軍後見職に就くと、宇津木とともに斬首の刑に処されました。その後彦根藩は、幕府から京都守護の任と藩領10万石を取り上げられ、未曾有の藩難に陥ります。【大え62(38)】

「勤王派」(至誠組)の台頭

「河上吉太郎」(1813-1872)

彦根藩の下級藩士集団「至誠組」の1人。鉄砲足軽の家に生まれ、江川太郎左衛門に砲術を学びました。文久2年4月頃より長野主膳の入牢を要求。8月には家老岡本半介邸に押しかけて、「朝敵にひとしき逆徒」への加担を止めるよう求めました。この訴えを受け岡本は、藩内に動揺をもたらした罪で、長野・宇津木の斬首を命じました。藩政の中心に座った岡本と河上ら至誠組は、旧領回復の実現のために、朝廷や「勤王」諸藩への働きかけを強めていきます。【大え62(28)】

「北川徳之丞」(-1878)

下級藩士集団「至誠組」の1人。幼少より書物を好み、煙草刻みの内職の傍ら、藩儒中川禄郎の下で勉学に励みました。嘉永3年(1850)8月より御普請方役夫手代を務めていましたが、文久2年10月、長州藩士の伊藤俊輔(博文)が彦根の藩情を探りに来た際、応接掛に抜擢されました。翌3年に士分(正規の武士身分)となり、岡本とともに京都周旋に奔走しました。維新後は貢士として政府に出仕し、行政官記録編蒐掛や賞勲局秘書官などを歴任しました。【大え62(30)】

「外村省吾」(1821-1877)

下級藩士集団「至誠組」の1人。鉄砲足軽の養子でしたが、朱子学・陽明学を修め、家塾を開きました。文久2年11月、彦根藩への「不当な」処分に対する幕府への抗議書を岡本半介・河上吉太郎・北川徳之丞と共同執筆。その差出人「岡村吉之丞」は4人の姓名からとったものでした。明治元年徴士となり、新律綱領の制定に関わりました。明治9年8月には、彦根学校(後の彦根東高等学校)の初代校長となっています。【大え62(31)】

「谷鉄臣(渋谷騮太郎)」(1822-1905)

下級藩士集団「至誠組」のリーダー格。町医の長男として生まれ、長崎でオランダ人医師に学んだ後、彦根初の西洋内科医となりました。文久2年6月、帯刀を許され、同年10月に応接掛に抜擢。伊藤俊輔や谷干城らを、自宅でもてなしました。大政奉還後は、「佐幕」を主張する岡本半介と対立し、藩論を「勤王」へと導きました。明治3年5月には、知事に次ぐ役職である彦根藩大参事まで上り詰め、廃藩後も左院議官や宮内省御用掛などを歴任しています。【大え62(29)】

禁門の変から戊辰戦争へ

「西郷正之介」(1849-1864)

禁門の変における戦没者。文久3年8月18日の政変により、京都から追放された長州藩は、翌元治元年(1864)に再び上京し、蛤御門付近で会津・桑名藩兵との戦闘を開始します(禁門の変)。彦根藩はこれを鎮圧するため出陣し、まだ16歳の西郷も志願して家老木俣土佐隊に属しました。西郷は鷹司邸付近で、槍を振るって戦いますが討死。その奮闘ぶりは、彦根藩における「勲功第一」と認められ、西郷家(220石)は30石の加増がなされました。【大え62(26)】

「武節貫治(河手主水)」(1841-1905)

戊辰戦争における彦根藩軍の大隊長。譜代大名の中で最も早く、新政府への帰順を表明した彦根藩は、慶応4年1月、鳥羽伏見の戦いが始まると、大津で京都防衛の任に就きます。その後桑名藩の征討に加わり、江戸開城後は下野国(栃木県)で、旧幕臣の大鳥圭介隊と数度にわたって交戦しました。さらに同藩は、白河(福島県)へ向かい、会津攻撃にも参加。その多大な戦功から、政府からの賞典も、薩長土に継ぐ3万石が下賜されています。【大え62(23)】

「青木貞兵衛」(1834-1868)

戊辰戦争における戦没者。同戦争における彦根藩最大の激戦地は、陸羽街道に位置する小山宿での戦いでした。慶応4年4月17日、古河藩の救援に駆けつけた彦根藩ら政府軍(約320人)は、大鳥圭介軍の本隊(約2千人)と全面衝突します。数の上で圧倒的に劣勢であった政府軍は完敗。青木貞兵衛率いる半小隊は、脱出不可能と観念して、白兵をもって敵中に斬り込み、全員討ち死にしました。【大え62(24)】

維新後の藩幹部たち

「江雪査(新野古拙)」(1808-1875)

第13代彦根藩主井伊直中の10男(直弼の兄)で武節貫治の父。一度は家老木俣土佐の養子となりますが、後に分家して藩の功臣新野家を再興しました。嘉永4年1月より家老に任じられ、禁門の変や第2次長州戦争などでは殿軍を務めました。慶応3年12月、京都の外交御用掛となり、王政復古後は谷鉄臣とともに、新政府に付くことを主張しました。明治2年8月、彦根藩大参事となるも、翌3年には谷にその座を譲りました。【大え62(33)】

「大東義徹(小西信左衛門)」(1843-1905)

鉄砲足軽の生まれ。河上吉太郎を師と仰ぎ、戊辰戦争に従軍。維新後は彦根藩少参事を務めた後、岩倉使節団に随行しました。帰国後は司法省に勤めますが、明治6年10月に西郷隆盛らが参議を辞任すると、職を辞して彦根に戻りました。外村省吾らと彦根議社(後の集議社)を結成して民権を主張。西南戦争の際には嫌疑をかけられ、官憲に拘束されました。明治23年に衆議院議員に当選し、第1次大隈内閣(隈阪内閣)では司法大臣に就任しています。【大え62(43)】

「西村捨三」(1843-1908)

彦根藩作事奉行(180石)の家の生まれ。江戸留学後、文久2年より京都周旋方として、各地の情報を収集しました。戊辰戦争の際に軍事方(参謀)を務め、維新後は藩選出の公議人(政府が設けた立法諮問機関「公議所」の委員)や権大参事になっています。明治5年には井伊直憲の欧米留学に随行。明治10年より内務省に出仕し、初代警保局長を務めています。その後も沖縄県令や大阪府知事、農商務次官など、政府の要職を歴任しました。【大え62(44)】

「石黒務(伝右衛門)」(1840-1906)

彦根藩金奉行を務めた父の早世のため、生後7ヶ月で家督を相続(100石)。文久3年にイギリス艦隊が、生麦事件の処理のため横浜に入港すると、藩命により警衛の任に就きました。王政復古後は岡本半介らと徳川慶喜を新政府に参加させるよう主張。彦根藩権大参事や静岡県大書記官などを歴任し、明治14年2月より福井県令を務めました。【大え62(45)】

戊辰戦争戦没者の慰霊

「井伊直憲首唱文」 明治8年(1875)4月5日

明治2年9月、彦根藩知事井伊直憲は、戊辰戦争の戦没者26名の霊を慰めるため、招魂祭を開催します。翌3年には、犬上郡古沢村の井伊神社の敷地に招魂碑を建立し、同4年の廃藩置県後も、井伊家からの寄付(年間米百俵)をもとに、毎年大祭を続けました。その後内務省は、各地の招魂社の地税免除を布達。この支援を心強く感じた直憲は、招魂場の改造を計画し、彦根士族に対して寄付金の協力を仰ぎました。【明す583(69)】

「招魂社新建造願」 明治8年(1875)4月30日

彦根士族の武節貫治(河手主水)から県に提出された古沢村招魂社の新築願書。従来の招魂碑は「浮屠」(ブッダ)の墓石に類似して体裁が悪く、郊外に位置するため、アクセスのよい「便利ノ地」に新たに造営したいと願い出ています。当初内務省は、免税地が増加することから、移転・新築は認めないとの立場でした。しかし武節の数度にわたる再願を経て、翌9年5月18日、犬上郡尾末町での新築が認められることになります。【明す586(81)】

「彦根招魂社神名帳」 (大正期)

彦根招魂社では、戊辰戦争の戦没者26名が祀られました。その内半数近くの15名は、下野国での大鳥圭介軍との戦闘においてでした。小山宿で戦死した青木貞兵衛の名も確認できます。ほとんどが彦根藩士ですが、軍夫として従軍していた文吉(坂田郡春照村出身)のような百姓も含まれていました。その一方、戊辰戦争中の死者であっても、病気が原因の者は含まれなかったようです。年齢は16歳から52歳まで幅があり、平均は27歳でした。【行政資料400】

「旧彦根藩殉難死節姓名履歴」 明治23年(1890)8月20日

天誅組の変で戦死した彦根藩士の履歴書。この時の犬上郡の調査によれば、天誅組の変で2名、禁門の変で9名、第二次長州戦争で23名の彦根藩士が少なくとも亡くなっていたようです。しかしこれらの者たちは、同じ幕末動乱期の戦没者でありながら、いずれも幕府側での参戦のため、長らく招魂社に祀られることはありませんでした。あくまで「官軍」として戦死した事実が、招魂社の祭神となる上で欠かせない要件だったのです。【明す629(3)】

「[写真]官祭招魂社」 (昭和期)

官祭招魂社

旧藩時代の「維新の功労者」を祀るために発足した彦根招魂社ですが、その後は他の内乱や対外戦争で戦死した者たちも、合祀対象に含まれるようになります。西南戦争の156名、日清戦争の216名、日露戦争の1,568名などです。彼らの出身地は、旧彦根藩領にとどまらず、県全域に及びました。戊辰戦争の戦没者も、膳所藩や西大路藩、水口藩の藩士などが追加され、旧彦根藩のための神社という性格は、次第に弱まっていきました。【昭こ39(6)】

「滋賀県出身者戦病死者合祀祭典趣意書」 大正4年(1915)7月

趣意書

西郷正之介ら禁門の変の戦没者の合祀は、大正4年10月になってようやく実現します。幕府側とはいえ、京都御所を守った功績が認められたのでしょう。しかし、その他の幕末期の戦没者は、その後も合祀されることはありませんでした。同じ彦根藩士であっても、戦死時期によって、その扱われ方には大きな差が生じたのです。さらに昭和14年(1939)4月、彦根招魂社は滋賀県護国神社と改称し、アジア・太平洋戦争の戦没者も祀られていきます。【明す653(2)】

《参考文献》

  • 滋賀県教育会編『近江人物志』(文泉堂、1917年)
  • 奈良本辰也監修『幕末維新人名事典』(学芸書林、1978年)
  • 日本歴史学会編『明治維新人名辞典』(吉川弘文館、1981年)
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滋賀県総合企画部県民活動生活課県民情報室
電話番号:077-528-3126(県政史料室)
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